コンテナ輸送のはじまり
概要
トラック運送業のマルコム・マクリーンが、改造したタンカー「アイデアルX」に58個の金属の箱を積み、ニューアークからヒューストンへ送った。荷役費が1トン5.83ドルから15.8セントになった。それまで、船荷は港で人の手で一つずつ積み替えられ、費用の半分近くが港で消えていた。箱の寸法が国際規格になり、船と鉄道とトラックが繋がり、港は都市の中心から沖の埋立地へ移った。工場が海の向こうへ行けるようになった。
場所
40.74°N -74.17°E · アメリカ・ニュージャージー州
関わった人(1)
マルコム・マクリーンAD1913年11月14日–AD2001年5月25日 · はじめた本文
1937年の秋、ノースカロライナ州の若いトラック運転手マルコム・マクリーンは、ニュージャージー州ホーボーケンの埠頭で、積んできた綿の俵を降ろす順番を待っていた。港では、トラックの列から港湾労働者が荷を一つずつ手で降ろし、船の脇まで運び、網に載せてデリックで吊り上げ、船倉の中でまた人が積み直していた。彼は一日じゅう待たされた。トラックの荷台をそのまま船に積めないものか、とそのとき考えた、と彼は後に語っている。
当時の海運では、船が海を渡る費用よりも、港で荷を積み降ろす費用のほうが重かった。荷は麻袋、木箱、樽、俵と、形も重さもばらばらで、機械ではさばけない。頼りになるのは、労働者の腕と、荷を引っかける鉤と、経験だった。船は航海しているのと同じくらいの日数を、港に停まって過ごした。積み荷が港で抜き取られることも珍しくなかった。ある試算では、アメリカからヨーロッパへ荷を送る費用のうち、実際に海を渡る分は半分にも満たなかったという。

マクリーンは、中古のトラック1台から運送業を始め、1950年代にはアメリカ有数のトラック運送会社を育て上げた。道路が混み、トラックの重さや運賃の規制が厳しくなるなかで、彼は東海岸の港と港を船で結び、そこにトラックの荷台を積めば安く運べると考えた。考えるうちに、車輪や台車まで船に積むのは場所の無駄だと気づいた。積むのは、荷を入れた箱だけでよい。
法律の壁もあった。当時のアメリカでは、運送の規制のため、一つの会社がトラックと船の両方の事業を持つことは難しかった。1955年、マクリーンはトラック会社の経営から退いて持ち株を手放し、多額の借金をして古いタンカーを持つ海運会社を買い取った。

1956年4月26日、ニュージャージー州ニューアークの港で、戦時中のタンカーを改造した「アイデアルX」の甲板に、長さ35フィート(約10メートル)の金属の箱58個が積み込まれた。積み込みにかかったのは数時間で、船は数日後にテキサス州ヒューストンに着いた。箱はクレーンでトラックの台車に降ろされ、そのまま走り去っていった。マクリーンの計算では、従来のやり方なら1トンあたり5ドル83セントかかった積み込みの費用が、16セントほどで済んだ。この数字は後からまとめられたものだが、桁違いの差は本物だった。
当然、強い抵抗があった。港湾労働者の組合にとって、箱は仕事を奪うものだった。ニューヨーク港には1950年代、数万人の港湾労働者が働いていた。東海岸でも西海岸でも、激しいストライキと長い交渉が続いた。最終的には、箱の量に応じて船会社が組合の基金に金を払い、いま働いている人の雇用や収入を保障する代わりに、新しく雇う人を減らしていく形で折り合いが付けられた。港の労働者は、数十年のうちに大きく減っていった。

もう一つの壁は、箱の寸法だった。マクリーンの箱は35フィート、ほかの会社はそれぞれ別の寸法を使った。寸法がそろわなければ、他社の船にも鉄道にもトラックにも載せられない。1960年代、アメリカの規格団体と国際標準化機構(世界の規格を決める場)で寸法の議論が始まり、長さ20フィートと40フィート、幅8フィートの箱が国際規格になった。決め手になったのは、箱の四隅に付ける金具の形である。クレーンの吊り具も、船や台車の固定具も、すべてこの金具をつかむ。マクリーンは、自社が持つ金具の特許を、使用料なしで使えるようにした。規格が広まることが、自分の利益にもなると考えたのである。
規模を一気に広げたのは、戦争だった。1960年代の半ば、ベトナム戦争で、アメリカ軍の補給は港で大混乱していた。マクリーンは軍に売り込み、南ベトナムのカムラン湾にコンテナの埠頭を作って軍の物資を運んだ。帰りの空の箱をどうするか。彼は船を日本に寄らせ、日本の工業製品を積んでアメリカの西海岸へ運んだ。太平洋を渡るコンテナ航路は、こうして始まった。日本でも1968年、最初のコンテナ専用船が太平洋航路に就いている。

コンテナは、世界の形を変えた。まず、運ぶ費用が劇的に下がった。品物の値段に占める海上輸送の費用は、ほとんど気にならない水準になった。運ぶのが安ければ、工場はどこにあってもよい。部品を海の向こうで作り、別の国で組み立て、さらに別の国で売る。生産は賃金の安い土地へ移り、サプライチェーンは地球を覆うようになった。
港も移った。マンハッタンの西岸、ロンドンのドックランズ、リヴァプールのような古い港は、巨大なクレーンと箱を並べる広い置き場を設ける余地も、大型船を受け入れる水深も無く、廃れていった。新しい港は、町から離れた埋立地に作られた。ニューアーク、ロッテルダム、シンガポール、そして香港と深圳。古い港の岸辺は、働く場所から再開発の対象に変わり、港町の酒場や労働者の暮らしと、彼らの組合の政治的な力も消えていった。
マクリーンは1969年に会社を売り、その後も新しい海運事業に挑んだが、1980年代には大型船に賭けた会社が石油価格の下落で行き詰まり、破産した。それでも晩年まで事業を起こし続け、2001年5月25日に87歳で死んだ。葬儀の朝、世界中のコンテナ船が彼をしのんで汽笛を鳴らした、と伝えられる。一つの箱は、ありふれた鉄の入れ物にすぎない。だが、それがどこでも同じ形であることが、20世紀後半の世界経済の土台になった。