できごと

摩擦マッチ

The friction match
AD1826年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国オスマン帝国デンマークポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1826年ストックトン・オン・ティーズ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1826年の版図を描いています(22勢力)。

概要

イングランド北東部の薬屋ジョン・ウォーカーが、調合中の棒の先が炉の縁に擦れて発火するのに気づいた。塩素酸カリウムと硫化アンチモンを練り、木の軸に付ける。紙やすりで擦れば、一瞬で燃える。彼は特許を取らず、作り方を隠さなかった。数年で各地が真似をし、白リンを使った安価な版が広まる。数分かかった作業が一秒になり、火は保つものから、要るときに作るものになった。ただし白リンは猛毒で、その代償は作る側が払うことになる。

場所

ストックトン・オン・ティーズ
54.57°N -1.32°E · イギリス・イングランド

本文

19世紀の初めまで、火をおこすのは手間のかかる仕事だった。火打ち石を鋼に打ちつけて火花を飛ばし、火口に受けて息を吹きかけ、小さな炎を育てる(火口箱)。うまくいっても数分はかかる。湿った日や風の強い日には、もっと手こずった。だから人々は、炉の火を絶やさないように気を配り、火が消えれば隣の家へもらいに行った。

これを一瞬の仕事に変えたのが、イングランド北東部の町ストックトン・オン・ティーズの薬屋、ジョン・ウォーカー(1781〜1859年)である。若いころは外科医の見習いをしていたが、手術の場に耐えられず薬屋に転じたと伝えられる。化学の実験が好きで、店の奥でいろいろな薬品を混ぜ合わせていた。

ウォーカーの発見を報じた記事(1829年10月10日『シェフィールド・インデペンデント』紙)
ウォーカーの発見を報じた記事(1829年10月10日『シェフィールド・インデペンデント』紙)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1826年、ウォーカーは火がつきやすい調合を探していた。混ぜた薬を棒で練っていたところ、棒の先にこびりついた薬が炉の縁にこすれて、ぱっと燃え上がった。彼はそこから、こすれば火のつく棒を作ることを思いついた。使ったのは、酸素を内に抱えて燃焼を助ける塩素酸カリウムと、燃える側の硫化アンチモンで、それをアラビアゴムで練り合わせ、厚紙や木の細い軸の先に付けた。火をつけるには、折りたたんだ紙やすりのあいだに軸の先を挟み、勢いよく引き抜く。

1827年4月、ウォーカーの帳簿に、この「摩擦の灯」を売った最初の記録が残っている。100本で1シリング、やすり付きだった。ウォーカーは特許を取らなかった。取るように勧めた人もいたが、断ったと伝えられる。理由ははっきりしないが、人々の役に立つものだから、と語ったという話もある。作り方も隠さなかった。そのため、すぐに真似をする者が現れ、1829年にはロンドンのサミュエル・ジョーンズが同じようなマッチを「ルシファー」の名で売り出した。

現在のストックトン・オン・ティーズ
現在のストックトン・オン・ティーズWikimedia Commons Alex Liivet from Chester, United Kingdom · CC0

ウォーカーのマッチは、まだ扱いにくかった。火がつくと小さな爆発のように火の粉が飛び、いやな臭いがした。そこで1830年代の初めに、フランスのソーリアやドイツのカンマラーらが、白リンを使ったマッチを作った。白リンのマッチはどこでこすっても火がつく。壁でも、靴の裏でもよい。値段も安く、確実だった。このマッチがたちまち世界に広まった。

だが白リンは猛毒だった。マッチの頭いくつか分で、人の命を奪うことがある。19世紀には、自殺や毒殺にもたびたび使われた。そして代償を最も重く払ったのは、作る側の人々だった。マッチ工場で白リンの蒸気を吸い続けた働き手、とりわけ若い女性や子どもは、顎の骨が腐っていく病気に冒された。燐顎(りんがく)と呼ばれるこの病は、激しい痛みと顔の崩れをもたらし、命を落とすこともあった。1888年、ロンドンのマッチ工場で少女たちがストライキを起こし、その劣悪な働き方が世に知られるきっかけになった(マッチ工場の少女たち)。白リンのマッチは、こすらなくても暑さや摩擦でひとりでに燃えだすことがあり、ポケットの中で燃えたという記録もいくつも残っている。

ストックトン城の想定復元図(現存せず)
ストックトン城の想定復元図(現存せず)Wikimedia Commons Print made by: George Scharf Printed by: Charles Joseph Hullmandel · Public domain

毒の無いマッチを作る道は、スウェーデンで開けた。1844年、グスタフ・パッシュは、火をつけるのに必要なものを二つに分けることを考えた。マッチの頭には塩素酸カリウムなどを付け、箱の側面には赤リンを塗る。赤リンは白リンと同じリンの元素でできているが、構造が違い、毒性ははるかに低い。頭を箱の側面でこすったときだけ火がつく。1855年、ヨハン・エドヴァルド・ルンドストレームが、スウェーデンのイェンチェピングの工場でこれを実用の品にし、その年のパリ万国博覧会で賞を得た。安全マッチの誕生である。

それでも、白リンのマッチはなかなか消えなかった。安全マッチは箱が要り、値段も高い。どこでこすってもつくマッチのほうが、売れ続けた。白リンが国際的に禁じられたのは、ようやく1906年のことである。ベルンで結ばれた条約が白リンのマッチの製造と輸入を禁じ、イギリスは1908年に法律を作った。アメリカは条約には加わらなかったが、1912年に白リンのマッチに重い税をかけて、事実上市場から締め出した。日本でも、明治の時代にはマッチが重要な輸出品になったが、白リンの使用は20世紀の初めに禁じられた。

マッチは、火と人との付き合い方を変えた。火をおこすのにかかる時間は、数分から1秒になった。火は炉に縛られていたが、マッチ箱に入ってポケットに収まった。煙草を吸う人は、街角で火を借りる必要がなくなった。何より、火は絶やさずに守るものから、要るときに作って捨てるものになった。古代ローマで聖なる火を千年守り続けたウェスタの巫女たち(ウェスタの火)のような営みは、技術の面では意味を失った。19世紀の終わりには、世界で年に数千億本のマッチが作られていた。安く、小さく、一度使えば捨てる。マッチは、使い捨ての工業製品の早い例でもあった。

ウォーカー本人は、発明で財を成すことはなかったが、貧しくもならなかった。故郷の町で薬屋として穏やかに暮らし、1859年に78歳で世を去った。墓はいまもストックトンにある。特許を取らなかったことを彼が悔やんだかどうかは分からない。取っていれば、マッチが広まるのは遅れたかもしれない。彼の調合には毒は入っていなかった。マッチは、より安く、より便利にする過程で、毒になったのである。

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