ラダマ1世
概要
18歳で即位し、イギリスと結んで銃を得て、マダガスカルの大半を統一した。宣教師を招いてマラガシ語をラテン文字で書けるようにする。
関わったできごと(1)
メリナ王国のマダガスカル統一1810年 · 統一した本文
ラダマ1世は、マダガスカル中央高地のメリナ王国の王である。この島には千数百年前、海を越えて東南アジアの人びとが渡ってきており(マダガスカルへの到達)、高地のメリナの言葉もその流れを引いている。父アンドリアナンプイニメリナは、いくつもに割れていた高地のメリナの人びとを、18世紀の終わりにアンタナナリヴォを中心にまとめ直した。父は死ぬ前に、海が我が田の境だ、という言葉を残したと伝えられる。島全体を一つにせよ、という意味である。ラダマはその遺志を継ぐことを、自分の役目と考えた。

ラダマは1793年ごろに生まれ、1810年に父が死ぬと、17歳か18歳で王位に就いた。若い王の即位を見て、従っていた周辺の首長の多くが離れた。ラダマはまずそれを力で押さえ直すところから始めなければならなかった。
島を一つにするには、銃と、それを使いこなす軍が要る。ラダマが手を結んだ相手はイギリスだった。インド洋のモーリシャスは、ナポレオン戦争のあとイギリス領になっていた。総督ロバート・ファーカーは、マダガスカルからの奴隷の積み出しを止めたいと考えていた。イギリスはすでに奴隷貿易を禁じており、インド洋でもそれを広げようとしていた。一方、メリナ王国は捕虜を奴隷として売ることで武器を手に入れてきた。

1817年、ラダマとイギリスは条約を結んだ。ラダマは奴隷の輸出を禁じ、その代わりにイギリスは毎年、金と銀、銃と火薬、軍服を贈り、ラダマを「マダガスカル王」と認めた。条約は一度途切れたが、1820年に結び直された。イギリスの使者ジェイムズ・ヘイスティは王の相談相手となり、軍の訓練にも関わった。
ラダマはヨーロッパ式の訓練を受けた常備軍を作った。兵には銃を持たせ、制服を着せ、号令で動く隊列を組ませた。この軍で東海岸の港トアマシナを押さえ、北と西へ遠征を重ねた。西部のサカラヴァの王国は手ごわく、完全には従わなかったが、ラダマの死までに島のおよそ三分の二がメリナの支配に入った(メリナ王国のマダガスカル統一)。

ラダマが軍と並んで力を入れたのが、文字と学校だった。1818年、イギリスのロンドン伝道協会の宣教師デイヴィッド・ジョーンズらが島に着き、1820年からアンタナナリヴォで学校を開いた。マダガスカルの言葉は、東南部の一部でアラビア文字を使って書かれることがあったが、広く書かれる言葉ではなかった。ラダマは宣教師たちに、ラテン文字で書く正書法を作らせた。子音はイギリス式、母音はフランス式で書く、と王が決めたという話が伝わっている。1823年ごろにこの綴り方が定まり、のちに聖書の翻訳と印刷が進んだ。
学校は王の命令で各地に広がり、数年のうちに数千人の生徒が読み書きを学んだ。宣教師は宗教を教えたかったが、ラダマが求めたのは何よりも役に立つ技術だった。読み書きに加え、大工や鍛冶などの職人の技も教えさせた。読み書きのできる若者は、やがて王国の役人や軍の書記になっていった。

ラダマは35歳になった1828年7月に死んだ。酒に溺れて体を壊したためとも、病のためともいわれ、死因ははっきりしない。跡を継いだのは妻の一人ラナヴァルナ1世だった。彼女は王位を争いうる親族を殺して地位を固め、夫の方針を大きく変えた。1835年にはキリスト教の信仰を禁じ、宣教師は島を去った。改宗した人びとは迫害され、多くが処刑された。外国との関係を絞り、伝統の儀礼を重んじる統治は33年に及んだ。
それでも、ラダマの残したものは消えなかった。ラテン文字で書くマラガシ語は宮廷の文書に使われ続け、ひそかに読まれた聖書を通じて信仰も生き残った。19世紀後半のメリナ王国は、キリスト教を国の宗教とし、法典を整えた。マダガスカルの言葉はいまもラダマの時代に決まった綴りを土台に書かれている。その意味で、ラダマは軍事の統一者であると同時に、この島の書き言葉を開いた王でもある。