イスラエル王国の分裂
概要
ソロモンの死後、北の10部族が離れてイスラエル、南がユダになった。北はBC722年にアッシリアに、南はBC586年にバビロンに滅ぼされる。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
本文
旧約聖書によれば、イスラエルの12部族は、紀元前10世紀にサウル、ダビデ、ソロモンの三代の王のもとで一つの王国にまとまっていた。ダビデはエルサレムを都とし(ダビデのエルサレム)、その子ソロモンは知恵と富で名高く、エルサレムに神の神殿と壮麗な宮殿を建てた(ソロモンの神殿)。だが、その繁栄は民の重い負担の上に成り立っていた。ソロモンは国を12の地区に分けて宮廷の食料を順に納めさせ、建築のために民を労役に駆り出した。ソロモンの晩年には、北の部族の労役を監督していたヤロブアムという男が反旗を翻し、エジプトへ逃れていた。
ソロモンが死ぬと、その子レハブアムが跡を継いだ。北の部族の人々は、王として認める前に、シケムの町でレハブアムに条件を出した。父上は私たちに重いくびきを負わせた。それを軽くしてくださるなら、あなたに仕えましょう、と。レハブアムは三日の猶予を求め、まず父に仕えた長老たちに相談した。長老たちは、民の願いを聞き入れて優しい言葉をかければ、民はいつまでもあなたに仕えるだろう、と答えた。次に、ともに育った若い側近たちに相談すると、彼らは逆に、厳しく突き放せと勧めた。三日後、レハブアムは民に向かって言った。父はお前たちを鞭で懲らしめたが、私は蠍で懲らしめる、と。

北の人々は答えた。ダビデの家に、私たちが受け継ぐものなど何も無い。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。レハブアムが労役の監督官を送ると、人々は彼を石で打ち殺した。王は慌てて戦車でエルサレムへ逃げ帰った。北の10部族は、エジプトから戻ったヤロブアムを王に立てた。こうして、北のイスラエル王国と、ユダ族とベニヤミン族からなる南のユダ王国に分かれた。紀元前930年ごろのこととされる。
ヤロブアムは、民がエルサレムの神殿に巡礼に通えば、心がまたダビデの家に戻ってしまうと恐れた。そこで、北の端のダンと南の境に近いベテルに聖所を設け、金の子牛の像を置いて、これがあなたたちをエジプトから導き上った神だ、と言った。聖書は、これを北の王国の根本の罪として繰り返し非難する。
北と南を比べると、北のほうが土地が広く、雨に恵まれ、交易の道にも近く、豊かだった。北の王国の都は、はじめシケム、次いでティルツァにあり、紀元前9世紀にオムリの王朝がサマリアに新しい都を築いた(オムリのサマリア建設)。オムリの子アハブは、アッシリアと戦う連合軍に大きな戦車部隊を出すほどの力を持っていた(カルカルの戦い)。モアブ人の王メシャの碑文も、オムリの名を挙げている。周りの国々から見れば、イスラエルといえば北の王国のことだった。一方の南のユダは、山がちで小さく、エルサレムとダビデの家の王統を守り続けた。分裂から数年後には、エジプトの王シシャク(シェションク1世)がこの地に攻め込み、エジプトの神殿の壁にその遠征で通った町の名を刻んでいる。

聖書の列王記は、南のユダの立場から書かれている。そのため、北の王たちはほとんど全員が神の目に悪を行った王として描かれ、王朝はクーデターで何度も入れ替わった。南では、ダビデの子孫が途切れずに王位を継いだ。もっとも、近年の考古学では、ダビデとソロモンの統一王国が聖書の描くほど大きく豊かな国だったのかについて、疑問も出されている。
北の王国は紀元前722年ごろ、アッシリアに都サマリアを落とされて滅んだ(イスラエル王国の滅亡)。住民の多くは遠くへ連れ去られ、代わりに別の土地の人々が移されてきた(アッシリアの強制移住)。連れ去られた北の部族は、その後の行方が分からなくなり、「失われた10部族」として、のちに世界中のさまざまな民族の起源の伝説と結びつけられることになる。北に残った人々の子孫は、のちにサマリア人と呼ばれた。
南のユダは、アッシリアの包囲にも耐えて(センナケリブのエルサレム包囲)さらに130年あまり続いたが、紀元前586年ごろ、新バビロニアに滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼かれ、王族や有力者がバビロンへ連れ去られた(バビロン捕囚)。異国の地で、彼らは自分たちの王国の歴史と神との約束を振り返り、古い伝えや記録をまとめ直した。王国がなぜ滅んだのかを、王たちが神に背いたためだと説明する列王記の歴史観は、この経験の中で形を整えたと考えられている。王国が失われたあと、人々を一つにつなぎ止めたのは、王ではなく書物だった。