人物

北条義時

Hōjō Yoshitoki
AD1163年 – AD1224年(享年61・推定)
鎌倉幕府重要度 3

概要

頼朝の死後の権力闘争を生き残り、承久の乱で上皇の軍を破った。朝廷が武家に敗れる形を、初めて作った人になる。

関わったできごと(1)

承久の乱AD1221年 · 幕府側

本文

1163年、伊豆の北条の地に生まれた。父の北条時政は、伊豆の国の役所に仕える中小の武士で、平家の世の東国のどこにでもいる在地の豪族にすぎなかった。その家の運命を変えたのが、伊豆に流されていた源氏の嫡流、源頼朝である。姉の政子が頼朝と結ばれ、北条家は頼朝の舅の家になった。

1180年、頼朝が平家打倒の兵を挙げると、18歳の義時も父とともに従った。最初の石橋山の戦いで大敗し、兄の宗時が討ち死にしている。家の分家にあたる江間の地を与えられ、若いころは江間小四郎と呼ばれた。頼朝はこの義弟を信頼し、側近の一人として身近に置いた。頼朝が自ら仲を取り持ち、もう離縁はしないという誓いの文書を書かせたうえで、御所に仕える女性と結婚させた、という話が『吾妻鏡』にある。

1199年、頼朝が急死すると、鎌倉は血で血を洗う争いの場になった(鎌倉幕府の成立)。若い二代将軍頼家の独裁を抑えるため、有力な御家人13人の合議の体制が作られ、37歳の義時もその一人に加わった。まもなく、頼朝の側近だった梶原景時が、他の御家人たちの訴えで鎌倉を追われ、一族もろとも滅んだ。1203年には、頼家の妻の実家として力を持った比企能員が、時政の屋敷に招かれて殺され、比企一族も滅ぼされた。頼家は将軍の座を追われて伊豆に幽閉され、翌年殺された。弟の実朝が三代将軍に立てられる。

次に父が動いた。1205年、時政は、頼朝の挙兵以来の功臣で人望の厚かった畠山重忠を、謀反の疑いで討たせた。義時は重忠の無実を父に訴えたと『吾妻鏡』は書く。同じ年、時政は後妻の牧の方とはかって、実朝を除き、牧の方の娘婿を将軍に立てようとした。政子と義時はこれを阻み、父の時政を出家させて伊豆へ追いやった。義時は、父に代わって幕府の政務を握る執権の立場に就いた。1213年には、幕府の軍事を預かっていた和田義盛を挑発して挙兵させ、激しい市街戦の末に滅ぼした。こうして頼朝以来の有力な御家人たちが次々に消え、義時が残った。

1219年1月、鶴岡八幡宮での儀式の夜、実朝が甥の公暁に斬り殺された。その日、実朝のすぐ後ろで太刀を持つ役は義時のはずだったが、直前に気分が悪くなったとして別の者に代わり、代わった者も殺された、と『吾妻鏡』は記す。あまりに出来すぎた話として、義時が暗殺に関わっていたのではないかという説も古くからあるが、確かな証拠は無い。

源氏の将軍は三代で絶えた。幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが断られ、代わりに頼朝の遠い縁にあたる摂関家の九条家から、2歳の男の子を鎌倉へ迎えた。のちの将軍頼経である。幼い将軍のもとで、政子と義時が幕府を動かした。

1221年5月、後鳥羽上皇は、義時を討てという命令を諸国に発した(承久の乱)。上皇は和歌にも武芸にも優れ、自ら兵を集め、朝廷の力を取り戻そうとしていた。命令の名目はあくまで義時一人を討つことで、幕府そのものを討つとは書いていない。御家人たちを義時から引き離すためだったとみられる。

知らせが鎌倉に届くと、御家人たちは動揺した。上皇に弓を引くことは、当時の武士にとって考えられないことだった。そのとき政子が御家人たちを集め、頼朝の御恩は山より高く海より深い、上皇方につきたい者はいまここで申し出よ、と語ったと『吾妻鏡』は伝える。幕府の中では、箱根の関で守るべきだという意見もあったが、頼朝以来の文官である大江広元が、すぐに京へ攻め上るべきだと主張し、義時と政子はそれを採った。義時の子の泰時と弟の時房が大軍を率いて東海道を進み、各地の軍が加わって、京へ入った。挙兵の命令から1か月ほどで、上皇方は敗れた。

戦後の処分は、それまでの日本では考えられないものだった。後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ流され、土御門上皇も自ら土佐へ移った。即位して間もない仲恭天皇は退けられ、幕府の意向で別の天皇が立てられた。上皇方についた貴族や武士の領地3000か所あまりが取り上げられ、戦いで手柄を立てた御家人たちに地頭の職として与えられた。京には六波羅探題を置いて、朝廷と西国を見張らせた。

朝廷が武家と戦って敗れ、皇位まで武家の意向で決まるという形が、このとき初めてできた。以後、明治維新で幕府が終わるまでの650年近く、政治の実権が武家の手にあるという形は大きくは変わらなかった。

1224年6月、義時は急に病に倒れ、62歳で死んだ。『吾妻鏡』は脚気によるものとするが、京の藤原定家の日記『明月記』には、捕らえられた上皇方の僧が、義時は妻に毒を盛られたのだと口にしたことが書き留められている。死の直後、伊賀の方とその兄が、自分の子を執権に立てようとして政子に退けられる事件が起きた。

あとを継いだ子の北条泰時は、承久の乱の後に増えた所領の争いを裁く基準として御成敗式目を定め、北条氏の執権政治を安定させた。義時の生涯は、親族や同僚を次々に倒して生き残った陰の多いものだったが、その上に、武士が自分たちの法で国を動かす時代が築かれた。

動画(1)

武家社会を定着させた男 北条義時の最期と武士たちが信じ抜いた源頼朝の権威【COTEN RADIO #288 】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO鎌倉殿シリーズの最終回。義時が残したものを総括する
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