旧石器捏造事件
概要
アマチュア考古学研究家の藤村新一が石器を事前に埋めて掘り出して見せていたことが、2000年に新聞のスクープで発覚した。日本の前・中期旧石器研究が根底から崩れた。
場所
38.71°N 140.98°E · 日本・宮城県栗原市
本文
日本列島に人が住み始めたのはいつか。この問いは、戦後の考古学の大きな主題だった。1949年に群馬県の岩宿で、土器の無い時代の石器が関東ローム層から見つかり、日本にも旧石器時代があったことが確かめられた。ただしそれは、およそ4万年前より新しい後期旧石器時代の話である。それより古い前期・中期の旧石器時代に、日本列島に人がいたのかどうかは、長く論争が続いた。東北大学の芹沢長介らは古い時代の人の存在を唱えたが、慎重な研究者は、それらしい石器は自然に割れた石にすぎないと批判した。
論争に決着をつけたように見えたのが、宮城県のアマチュア考古学研究家、藤村新一だった。藤村は1950年生まれで、勤めのかたわら遺跡を歩いて石器を拾い集める在野の愛好家だった。1975年に結成された宮城県の研究グループ「石器文化談話会」に加わり、1970年代半ばから各地の遺跡で古い地層から石器を次々に見つけた。宮城県の座散乱木遺跡などの成果によって、1980年代初めには、日本にも前期旧石器時代があったことが確立したと宣言された。その後も「発見」は続き、日本の旧石器時代の始まりは70万年前までさかのぼるとされた。アジアでも最も古い部類である。
藤村は、狙った年代の地層から、周りの研究者が期待するとおりの石器を掘り当てた。その手際から「神の手」と呼ばれた。発見は教科書に載り、町おこしや観光に生かそうとする地元にも歓迎された。宮城県の上高森遺跡は、原人の時代の遺跡として広く知られるようになった。しかし、藤村がいるときにだけ石器が出る、石器の出方が不自然だ、という疑いを持つ研究者もいた。
2000年11月5日、毎日新聞が朝刊で、藤村が上高森遺跡で石器を地面に埋めている姿をとらえた写真を報じた。取材班は現場で密かに張り込み、藤村の動きを撮影していた。指摘されたのは上高森遺跡と北海道の総進不動坂遺跡だった。藤村は捏造を認めた。埋めていた石器は、自分で別の場所から集めておいた縄文時代のもの(縄文土器の時代の石器)がほとんどだったと考えられている。
日本考古学協会は藤村を退会処分とし、藤村が関わったすべての遺跡を調べ直した。石器には、発掘のときには付くはずのない傷や、鉄の道具とこすれた跡が見つかった。掘り直した遺跡からは、掘り残された捏造の石器も出てきた。その結果、藤村の成果をもとに認められていた前・中期旧石器時代の遺跡162か所が、すべて認定を取り消された。上高森遺跡は遺跡としての登録そのものが抹消され、国の史跡だった座散乱木遺跡は指定を解除された。
影響は学界の外にも広がった。中学校・高等学校の教科書から前期旧石器時代の記述が消え、大学入試にまで響いた。中国や韓国の報道は、日本人が歴史を歪めている証拠だとしてこの事件を大きく取り上げた。疑いの目は藤村と関係の無い遺跡にも向けられ、大分県の聖嶽洞穴遺跡も捏造ではないかと週刊誌に書かれた。発掘を指導した名誉教授は2001年に抗議の遺書を残して自殺し、のちに遺族の訴えで出版社に賠償が命じられた。
事件は、日本の旧石器研究のやり方の弱さをさらけ出した。年代を火山灰の地層だけで決め、石器そのものを確かめる手続きが足りなかった。発掘の報告書が出されていない遺跡も多かった。一人の発見者に頼りきり、異論を唱えにくい空気もあった。日本考古学協会は特別委員会を設けて検証を重ね、2002年の報告書では、なぜ捏造を見逃したのかを関係者自身が振り返った。藤村が副理事長を務めていた民間の東北旧石器文化研究所は、報告書の刊行を終えた2004年に解散した。スクープした毎日新聞の取材班は、2001年に菊池寛賞を受けた。日本列島にいつ人が来たのかは、いまも振り出しから確かめ直されている途中である。