シモン・タッシ
概要
マタティアの5人の息子の2番目。ユダとヨナタンが死んで、最後に指導者に。エルサレムの要塞アクラを落とし、独立を得た。娘婿プトレマイオスがエリコの宴で息子二人と共に殺した。三男ヨハネ・ヒルカノスが逃げて継いだ。
関わったできごと(1)
ハスモン朝の独立BC140年 · 指導者本文
シモンは、紀元前2世紀のユダヤの祭司マタティアの5人の息子の一人である。旧約聖書の続編として伝わる『マカバイ記一』は、5人の兄弟を、ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタンの順に挙げ、それぞれに添え名をつけている。シモンの添え名はタッシといい、その意味ははっきりしない。生まれた年も分からない。
そのころのユダヤは、シリアを本拠とするセレウコス朝(セレウコス朝)の支配下にあった。紀元前167年、王アンティオコス4世エピファネスはエルサレムの神殿にギリシアの神の祭壇を置き、ユダヤの律法に従って生きることを禁じた。エルサレムの北西の村モデインで、マタティアは異教の神に供え物をするよう命じた王の役人と、それに従おうとしたユダヤ人を殺し、息子たちとともに荒れ野に逃れて反乱を起こした(マカバイの反乱)。
マタティアは、死ぬ前に息子たちを集め、シモンは思慮深い男だから、彼の言うことを父の言葉と思って聞け、ユダは若いころから力が強いから、軍の長にせよ、と言い残したと『マカバイ記一』は書く。実際、戦場で名を上げたのは三男のユダ・マカバイだった。ユダは紀元前164年にエルサレムの神殿を取り戻して清め、その祝いはいまもユダヤ教の祭りとして続いている。シモンは兄弟の中で、ガリラヤのユダヤ人を救い出す遠征を率いるなど、軍の一翼を担った。
だが、兄弟たちは次々に倒れていった。エレアザルは戦場で敵の象の腹の下に潜り込んで刺し、倒れてきた象の下敷きになって死んだ。紀元前160年、ユダは圧倒的な敵の軍と戦って戦死した。長兄ヨハネも、荷を運ぶ途中で襲われて殺された。後を継いだ末弟のヨナタンは、セレウコス朝の王位争いを巧みに利用して、大祭司の位と広い土地を手に入れたが、紀元前143年ごろ、将軍トリュフォンに欺かれて捕らえられ、殺された。5人の兄弟のうち、残ったのはシモンだけだった。
シモンは指導者となると、まずヨナタンの遺骨を故郷のモデインに運び、父母と兄弟たちのために墓を建てた。7つの塔を並べ、その柱に武具と船を彫り込み、海を行く人々からも見えるようにしたという。そして彼は、トリュフォンと王位を争っていた王デメトリオス2世と結び、ユダヤに税を免じさせた。紀元前142年のことである。『マカバイ記一』はこの年を、イスラエルから異邦人の軛が取り除かれた年と書き、人々は文書や契約に、シモンの第1年と日付を記し始めた。
シモンは、地中海への出口になる港町ヨッパを押さえ、要地ゲゼルを攻め落とした。最大の課題は、エルサレムの神殿を見下ろす城砦アクラだった。そこには四半世紀にわたって、セレウコス朝の兵と、ギリシア風の暮らしになじんだユダヤ人たちが立てこもり、神殿に詣でる人々を脅かしてきた。紀元前141年の春、シモンはアクラを囲んで兵糧攻めにし、ついに明け渡させた。人々は棕櫚の枝を手に、竪琴や琴を鳴らし、歌いながら城砦に入った。シモンはこの日を毎年喜びをもって祝うよう定めた。
紀元前140年の秋、エルサレムで祭司や民の長老たちの大きな集まりが開かれ、シモンを大祭司、軍の司令官、ユダヤの民の指導者とすることを決めた。この地位は、まことの預言者が現れるまで、永遠に彼と子孫に受け継がれる、とされた。決議は銅の板に刻まれ、神殿の丘の柱に掲げられた。王という称号こそ使わなかったが、ここに、シモンの家が代々ユダヤを治めるハスモン朝が事実上生まれた(ハスモン朝の独立)。『マカバイ記一』は、シモンの治世を、人々が平和に土地を耕し、それぞれが自分のぶどうの木といちじくの木の下に座って、脅かす者もいなかった時代として、詩の言葉でたたえている。
シモンは、遠くの大国との結びつきも求めた。使節をローマに送り、重さ千ミナの金の盾を贈って友好を確かめた。ローマの元老院は、ユダヤ人を友とし同盟者とする旨を、周りの王や町々に書き送ったと伝えられる。地中海の東で影を広げ始めていたローマを後ろ盾にすることで、セレウコス朝を牽制しようとしたのである。
だが、セレウコス朝はあきらめていなかった。新しい王アンティオコス7世は、ヨッパとゲゼル、アクラを返すか、千タラントの銀を払うよう迫った。シモンは、自分たちが取り戻したのは父祖から受け継いだ土地であって、他人の土地を奪ったのではない、と答えた。王の将軍が攻めてくると、年老いたシモンにかわって、息子のヨハネとユダが兵を率い、これを打ち破った。
シモンの最期は、外の敵ではなく、身内によってもたらされた。紀元前135年ごろの冬、シモンは息子のマタティアとユダを連れて、ユダヤの各地を見回り、エリコの近くの小さな砦に立ち寄った。砦の主は、シモンの娘婿でエリコの長官を務めていたプトレマイオスで、彼は自分がユダヤの支配者になろうと企てていた。プトレマイオスは盛大な宴を開いてシモンたちをもてなし、酔ったところを、隠しておいた手下に襲わせて、シモンと二人の息子を殺した。さらに、もう一人の息子ヨハネを殺すため、刺客を送った。だがヨハネは知らせを受けて先に刺客を捕らえ、殺した。『マカバイ記一』はここで、ヨハネのその後の事績は大祭司の年代記に記されている、と結んで終わる。
父の跡を継いだヨハネ・ヒルカノスは、ユダヤの領土を大きく広げた。その子孫は王を名乗るようになったが、やがて兄弟どうしの争いが起き、それにつけ込んだローマの将軍ポンペイウスが紀元前63年にエルサレムに入った(ポンペイウスのエルサレム占領)。ローマに後押しされて王となったヘロデ大王は、シモンの家の血を引く王女マリアムネを妃に迎えたが、その弟の大祭司を溺れさせて殺し、紀元前29年には疑いの末にマリアムネ自身も処刑した。異国の支配を打ち破って独立を勝ち取ったシモンの家の人々は、百年あまりののち、異国の力を借りた王の手で次々に命を絶たれたのである。