人物

ブライアン・ボル

Brian Boru
AD941年頃 – AD1014年4月23日(享年73・推定)
アイルランド重要度 4

概要

マンスターの小王から、ヴァイキングと他の王を一つずつ倒して上王になった。「アイルランドの皇帝」とアーマーの書に自分で書かせた。クロンターフで勝った日に、天幕で殺された。オブライエン家の祖。

関わったできごと(1)

クロンターフの戦いAD1014年4月23日 · 戦死した上王

本文

ブライアン・マク・ケネーティグは941年頃、アイルランド南西部、いまのクレア州キラルー付近で生まれた。一族はダール・カシュと呼ばれる小さな氏族で、マンスター地方を長く支配してきたエーガナハト王家の陰に隠れた存在だった。「ボル」はあだ名で、一説に「貢ぎ物の」を意味し、のちに諸王から家畜の貢納を取り立てたことに由来するという。故郷キラルー近くの砦の地名から来たとする説もある。父ケネーティグは951年に死に、一族は兄マホンが率いた。

Brian Bóruma mac Cennétig (1723) (crop)
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

当時のアイルランドには、9世紀に海から来たヴァイキングが建てた港町がいくつもあった。ダブリンの建設以来のダブリンをはじめ、ウォーターフォード、リムリックなどで、彼らは交易で富み、周辺の王たちと戦ったり手を結んだりしていた。マホンとブライアンの兄弟は、シャノン川の河口を押さえるリムリックのヴァイキングと争いながら力を伸ばした。12世紀に書かれた『ゲーディルとガルの戦い』は、若いブライアンがわずかな手勢で森に潜み、兄が和を結んだ後もヴァイキングとの戦いをやめなかったと描く。ただしこの書物は、ブライアンの子孫の王の権威を高めるために書かれた英雄譚で、どこまでが事実かは割り引いて読む必要がある。

967年、兄弟はスルコイドの戦いでリムリックのヴァイキングの王イーヴァルを破り、町を略奪した。マホンはマンスターの王になったが、976年、対立する豪族の手で殺された。跡を継いだブライアンは容赦がなかった。翌977年、イーヴァルとその息子たちをシャノン川河口のスキャタリー島の修道院まで追って殺し、978年には兄の殺害に関わった王をベラハ・レクタで破って、マンスター王の座を固めた。

クロンターフの朝のブライアン・ボル
クロンターフの朝のブライアン・ボルWikimedia Commons John Fergus O'Hea · Public domain

そこから20年あまり、彼は南の諸王国を一つずつ従えていった。北と東の上王はウー・ネール家のマール・シェフネル(マエル・セフネル)で、997年、二人は会談してアイルランドを南北に分け合った。999年、レンスターとダブリンのヴァイキングが連合して背くと、ブライアンはダブリン南方のグレン・ママで彼らを破り、ダブリンに入った。彼はダブリン王シトリック(絹髭)を町から追い出したままにはせず、王に戻して臣従させ、自分の娘を嫁がせた。自身はシトリックの母でレンスター王家の出のゴルムフラスを妻に迎えた。打ち負かした相手を婚姻で縛るのが、彼のやり方だった。1002年、マール・シェフネルはついに屈し、ブライアンはアイルランドの上王と認められた。ウー・ネール家の外から出た、初めての上王だった。

1005年、ブライアンは北部の宗教の中心アーマーを訪れ、教会に金を寄進した。このとき、教会が持つ聖典の写本『アーマーの書』の余白に、彼の書記が一文を書き込んだ。そこで彼は「インペラトール・スコトルム」、すなわち「アイルランド人の皇帝」と呼ばれている(当時アイルランド人はラテン語でスコット人と呼ばれていた)。アイルランドの王が「皇帝」を名乗った例は、それまでなかった。書き込みはいまもダブリンのトリニティ・カレッジ図書館の写本に残っている。

晩年、支配はまた揺らいだ。1012年にレンスターが背き、ダブリンのシトリックもそれに付いた。両者は海の向こうのオークニーやマン島のヴァイキングにも援軍を求めた。1014年4月23日、聖金曜日、ダブリン北東のクロンターフの浜で決戦が起きた(クロンターフの戦い)。ブライアン側は勝ち、レンスターとヴァイキングの連合軍は海へ追い落とされた。しかし70歳を超えていたブライアンは自ら戦わず天幕で祈っていて、敗走するヴァイキングの一団に見つかって殺された。手を下したのはマン島から来たブロディルという男だったと伝わる。この日、息子ムルハドも、15歳の孫トールデルバハも戦死した。勝った側が王と後継者を一度に失ったのである。

クロンターフの戦いに関わる図版:'Battle of Clontarf', oil on canvas painting by Hugh Frazer, 1826
クロンターフの戦いWikimedia Commons Hugh Frazer · Public domain

遺体はアーマーに運ばれ、盛大な葬儀の後、大聖堂の北側に葬られた。上王の座はマール・シェフネルに戻り、ブライアンの築いた体制は一代で終わった。

それでも、彼の名は残った。子孫は「ブライアンの孫たち」を意味するオブライエンを名乗り、南西部のトモンドの王家として中世を生き延びた。16世紀にはその当主がイングランド王ヘンリー8世に臣従して伯爵となっている。19世紀のアイルランド民族運動は、クロンターフを外来の侵略者に対するアイルランド人の勝利として語り、ブライアンを国民の英雄にした。現代の歴史家は、この戦いを「アイルランド対ヴァイキング」の構図で読むことに慎重で、ブライアンとレンスター王家との覇権争いという内戦の性格が強かったと見ている。ダブリンのトリニティ・カレッジに残る中世のハープは「ブライアン・ボルのハープ」と呼ばれ、アイルランドの国章や硬貨の意匠になっているが、作られたのは彼の死から数百年後で、彼とのつながりは伝説にすぎない。物語の多くは、物語「ヴァイキング」の時代を生きた一人の王を、後の世が必要とした英雄に作り変えたものでもある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD941年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →