ストラスブールの舞踏病
概要
1518年の夏、ストラスブールで人々が止まらずに踊り続ける騒ぎが広がり、数十人から数百人が踊りに加わった。原因はいまも分かっていない。
場所
48.57°N 7.75°E · フランス・グラン・テスト地域圏
本文
1518年のストラスブールは、神聖ローマ帝国に属する自由都市で、ライン川の水運で栄える大きな町だった。80年ほど前にはグーテンベルクがこの町で印刷の技術を試しており、新しい書物と思想が行き交う場所でもあった。しかしその数年前から、アルザスの人々は厳しい冬と不作、飢え、病に苦しんでいた。天然痘や梅毒、ハンセン病も広がっていた。翌1517年には、北のヴィッテンベルクで95か条の論題が出され、教会のあり方が問われ始めていた。
7月のある日、トロフェアという名で伝わる女性が、家の前の通りで踊り始めた。音楽も無く、ただ踊り続け、倒れて眠ってはまた踊った。数日のうちに、見ていた人々のなかから同じように踊り出す者が現れ、1週間ほどで30人を超えた。8月には、踊る人の数は50人とも400人とも記されるほどになった。当時の記録によれば、踊る人々は汗にまみれ、手足を激しく振り回し、足は腫れて血がにじんだという。

市の当局は、これを医者に諮った。医者たちは、悪魔や星のせいではなく「血が熱くなった」ための病だと判断した。熱を冷ますには、さらに踊って出し切らせればよいとされた。そこで当局は、組合の集会所を開放し、楽士を雇い、馬市の広場に舞台まで設けた。踊る人を支える力の強い者も雇われた。ところがこれは裏目に出た。音楽と見物人に誘われて、踊りに加わる者がかえって増えたのである。
当局は方針を改めた。人前で踊ることと楽器を鳴らすことを禁じ、踊りを罪への罰とみなして、聖ウィトゥスへの祈りに頼った。聖ウィトゥスは、罪ある者を踊らせて罰すると信じられていた聖人である。踊る人々は、山中にある聖ウィトゥスの礼拝堂へ連れて行かれ、十字を描いて聖水をかけた赤い靴をはかされ、ミサを受けた。騒ぎは9月に入ると収まっていった。

礼拝堂への巡礼で踊りが収まったという話はすぐに広まり、人々は聖人が赦しを与えたと受け止めた。
当局が踊りを禁じたときも、まったく禁じたわけではなかった。婚礼や初ミサのような正しい祝いの場では、太鼓を使わず弦楽器だけで踊ることが許されたという。踊りそのものを悪とするのではなく、人々を刺激する音を抑えようとしたことがうかがえる。
どれほどの死者が出たのかは、はっきりしない。最盛期には一日に15人が死んだという話がよく引かれるが、当時の市の記録にはその数は出てこず、後の時代の書き手によるものとされる。最初に踊り出した女性の名も、記録によって違う。それでも、医者の所見、説教、年代記、市参事会の記録といった当時の文書が、人々が踊り続けたこと自体は一致して伝えている。数年後にこの町を訪れたパラケルススも、この踊りの病について書き残した。
原因については、いくつかの説がある。一つは、ライ麦に生える麦角菌の毒による中毒である。麦角の毒は幻覚やけいれんを引き起こし、セイラムの魔女裁判の原因としても挙げられることがある。しかし、中毒で何日も踊り続けられるとは考えにくく、多くの人が同じように踊った理由も説明できない。もう一つは、飢えや病で極度の不安にさらされた人々が、聖ウィトゥスの罰への恐れを共有するなかで起きた集団心因性の病だとする説で、こちらが有力とされる。

このような踊りの騒ぎは、ストラスブールだけのものではなかった。とくに14世紀以降、ライン川やモーゼル川の流域で何度も記録されている。黒死病の大流行を経た中世の終わりのヨーロッパで、人々が病や罰をどう受け止めていたかを映す出来事として、いまも研究が続いている。