ゲルマニクス
概要
ティベリウスの養子となったローマの将軍。トイトブルクの報復にゲルマニアへ遠征し、東方で若くして死んだ。
所属
ローマ帝国関わったできごと(1)
ポンテス・ロンギの戦いAD15年 · 遠征の総指揮。副将カエキナを陸路で帰した本文
ゲルマニクスは、紀元前15年5月24日、ローマで生まれた。父はアウグストゥスの妻リウィアの連れ子ドルススで、母はマルクス・アントニウスとアウグストゥスの姉オクタウィアの娘、小アントニアである。本来の名ははっきりしない。父ドルススはライン川を越えてゲルマニアへ攻め込み、紀元前9年に遠征の途中で死んだ。その功を称えて元老院が贈ったゲルマニクス(ゲルマニアを制した者)の名が、子に受け継がれた。弟がのちの皇帝クラウディウスである。
紀元4年、アウグストゥスは跡継ぎに考えていた孫たちを相次いで失い、ドルススの兄ティベリウスを養子にした。その条件として、ティベリウスは実の子がいるにもかかわらずゲルマニクスを養子に迎えた。ゲルマニクスはアウグストゥスの孫娘大アグリッピナと結婚し、次の次の皇帝となる道を約束された。二人の間には9人の子が生まれ、6人が育った。
若いころからティベリウスの下で戦い、紀元7年から9年のパンノニアの大反乱の鎮圧に加わった。紀元12年に執政官、翌年にはライン川の8個軍団を任された。紀元14年にアウグストゥスが死ぬと、ライン川の軍団は給与や兵役の年限に不満を抱いて反乱を起こし、ゲルマニクスこそ皇帝にと担ぎ上げようとした。ゲルマニクスはこれを拒み、自分の剣を胸に当てて見せたとまで伝えられる。幼い息子ガイウスは軍営で小さな軍靴を履いて育ち、兵士たちからカリグラ(小さな軍靴)と呼ばれた。
反乱を収めると、ゲルマニクスは5年前にトイトブルク森の戦いで3個軍団を滅ぼしたアルミニウス(アルミニウス)への報復の遠征を始めた。紀元15年にはその戦場を訪れ、野ざらしになっていた兵の骨を葬って自ら最初の土を盛ったと、タキトゥスは書く。同じ年、帰路についた副将カエキナの軍は湿地でアルミニウスに襲われ、あと一歩で全滅するところだった(ポンテス・ロンギの戦い)。紀元16年には船で大軍を北海から送り込み、ヴェーザー川のほとりで二度アルミニウスの軍を破った。奪われていた三つの軍旗(鷲章)のうち二つも取り戻した。だが帰りの船団は北海の嵐に遭い、大きな損害を出した。
ティベリウスはこの年の末、遠征をやめさせてゲルマニクスを呼び戻した。ライン川の向こうを再び属州にするには犠牲が大きすぎると見たためで、ゲルマン人は内輪の争いに任せればよいと考えた。紀元17年5月26日、ゲルマニクスはローマで凱旋式を行い、捕らえたアルミニウスの妻トゥスネルダとその子も引き回された。ゲルマニアの属州化はこれで終わり、ライン川が帝国の境として固まった。
同じ年、ゲルマニクスは東方の諸属州を統べる大きな権限を与えられて送り出された。紀元18年にはアルメニアの都アルタクサタで、ローマの推す王の頭に冠を載せ、カッパドキアとコンマゲネを属州とした。紀元19年には穀物の価格を下げるためにエジプトへ渡り、名所を巡った。だがエジプトへは皇帝の許しなく元老院議員が入ってはならないというアウグストゥス以来の決まりがあり、ティベリウスは強くとがめた。シリアの総督ピソとも衝突し、二人の仲は決裂した。
紀元19年の秋、ゲルマニクスはアンティオキアで病に倒れ、10月10日に33歳で死んだ。死の床で、ピソとその妻に毒を盛られたと訴えたと伝えられる。屋敷の床下からは呪いの言葉を刻んだ鉛の板などが見つかったという。アグリッピナは遺灰を抱いてローマへ戻り、市民は深く嘆いた。ピソは裁判にかけられて自ら命を絶ったが、毒殺が本当にあったのかは今も分からない。ピソを裁いた元老院の決議を刻んだ青銅板は、20世紀の末にスペインで見つかっている。
ゲルマニクスは帝位に就かないまま死んだが、その血筋は帝国の中心に残った。息子のカリグラが紀元37年に皇帝となり、弟のクラウディウス、孫のネロが後を継いだ。タキトゥスは、若く人気があって死んだ彼を、陰気なティベリウスと対照させて理想の皇子のように描いている。ただしそれには、ティベリウスへの反感がにじんでいるとも見られている。