概要
1930年代、大恐慌のなかで各国は関税を引き上げ、自分の国の市場を閉ざし合った。貿易は縮み、経済の行き詰まりが国々を戦争へ押しやった。その反省から、戦後の世界は自由な貿易の仕組みを作ろうとした。1947年10月30日、ジュネーヴで23か国が、関税を引き下げ、どの国にも同じ条件を与えることを約束する関税と貿易に関する一般協定、GATTに署名した。本来は国際貿易機関ができるまでのつなぎだったが、その機関は生まれず、GATTが47年間、世界の貿易の決まりを担った。何度もの交渉で関税は大きく下がり、1995年に世界貿易機関へ引き継がれた。
場所
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)
本文
1930年、大恐慌が始まると、アメリカは数千品目の関税を大きく引き上げる法を作った。他の国々も報復の関税で応じ、イギリスやフランス、日本は、自国とその植民地の間でだけ貿易をする経済のブロックを作った。世界の貿易は数年で3分の1ほどに縮み、失業はさらに増えた。持たざる国は資源と市場を求めて領土を広げようとし、それが戦争の一因になった。
1944年のブレトン・ウッズ会議は、通貨の安定のための国際通貨基金と、復興と開発のための世界銀行を作ることを決めた。貿易についても、関税を下げ、差別をなくすための国際貿易機関を作る構想が立てられた。その憲章を話し合う会議の途中で、まず関税の引き下げを先に実現しようと、23か国が交渉し、1947年10月30日、ジュネーヴで関税と貿易に関する一般協定、GATTに署名した。協定は1948年1月1日から暫定的に適用された。
GATTの柱は二つあった。ある国に与えた最も有利な関税の条件は、すべての加盟国に与えなければならない(最恵国待遇)。輸入した品は、国内の品と同じに扱わなければならない(内国民待遇)。1948年、ハバナの会議で国際貿易機関の憲章がまとまったが、アメリカの議会が批准せず、機関は生まれなかった。つなぎのはずのGATTが、そのまま世界の貿易の決まりになった。
GATTのもとで、加盟国は何度も交渉を重ね、関税を少しずつ下げていった。1960年代のケネディ・ラウンド、1970年代の東京ラウンドで、先進国の工業品の関税は大きく下がった。日本は1955年に加盟したが、日本の安い製品の流入を恐れた多くの国が、日本にはGATTの待遇を与えないと宣言し、その差別をなくすのに長い年月がかかった。日本の高度経済成長は、GATTのもとで広がった自由な貿易に支えられていた。
1986年から1994年まで続いたウルグアイ・ラウンドは、農産物やサービス、知的財産権にまで交渉を広げ、その結果、1995年、紛争を裁く仕組みを持つ常設の機関として、世界貿易機関が作られた。GATTは、47年の暫定の役目を終えた。