河上彦斎
概要
熊本藩の尊王攘夷派の志士。佐久間象山を暗殺し、人斬り彦斎と呼ばれた。維新後も攘夷を唱え続けて斬首された。
本文
河上彦斎は、1834年、肥後熊本城下の新馬借町で、下級藩士・小森貞助の次男として生まれた。同じく下級藩士の河上家の養子となり、16歳で茶坊主として藩主の屋敷に召し抱えられた。そのかたわら国学者の林桜園に学び、兵法を宮部鼎蔵に習って、尊王攘夷の思想を固めた。なかでも外国を打ち払えと強く唱える、激しい攘夷論者だった。
1862年ごろから京都で尊攘派と交わり、長州の久坂玄瑞や桂小五郎(のちの木戸孝允)と親しくなった。翌1863年には熊本藩の親兵に選ばれ、宮部らと並ぶ幹部に推された。しかし同じ年の八月十八日の政変で尊攘派が京都を追われると、長州へ落ちる三条実美らの警護を務め、以後は長州の攘夷派とともに動いた。
1864年6月の池田屋事件で師の宮部が新選組に討たれると、彦斎は再び京都へ向かった。7月11日、開国論の重鎮だった佐久間象山が西洋式の鞍を置いた馬で通るところを、因州浪人の杉浦虎太郎と二人で襲い、足を斬って落馬させ、とどめを刺した。三条大橋には、象山は西洋の学を唱えて遷都を企てた国賊だという斬奸状が掲げられた。白昼の犯行で、すぐに二人の名が挙がったが、彼らは長州勢に紛れた。一説に、久坂に外部の刺客として雇われていたともいう。8日後の禁門の変には長州側で加わり、1866年の第二次長州征討でも長州軍の一員として幕府軍と戦った。

1867年、長州と熊本藩の衝突を止めようと郷里へ戻ったが、藩の実権は幕府寄りの派が握っており、脱藩の罪で投獄された。大政奉還も鳥羽・伏見の戦いも獄中で迎え、出られたのは1868年2月だった。藩は彦斎を使って新政府に取り入ろうとしたが、彦斎は協力を断った。
維新後は、命を狙われることを案じた藩主の弟の勧めで、高田源兵衛と名を変えた。象山の息子で新選組の隊士だった三浦啓之助が仇を狙っている、と噂されていたからである。新政府が開国へ舵を切ると、彦斎は三条や木戸の変節をなじり、京都の要人は会おうとしなくなった。1869年に豊後の鶴崎(熊本藩の飛び地)へ移され、有終館という塾を開いて兵を鍛えたが、藩から突然解散を命じられた。さらに大村益次郎の暗殺に関わった大楽源太郎を匿ったことから、二卿事件や参議・広沢真臣の暗殺への関与を疑われて捕らえられ、東京へ送られた。1872年1月13日(明治4年12月4日)、日本橋小伝馬町で斬首された。満37歳。藩が消えた廃藩置県から半年足らずのことである。暗殺事件への関与は薄く、新政府に従わない危険な攘夷論者として処刑されたとみられている。

身の丈は5尺(約150センチ)ほどと小柄で色白、一見すると女性のようだったという。剣は我流で、右足を前に出して左膝が地につくほど低く構え、片手で斬り上げたと伝えられる。伯耆流の居合を学んだとする説や、子孫が伝える雲弘流の説もある。人斬り彦斎、ヒラクチ(蝮)の彦斎と呼ばれたが、記録の上で確かに斬ったと言えるのは象山ひとりである。幕末の四大人斬りという呼び名も後世のものだ。
人を斬ることをためらわない姿を、勝海舟が談話に残している。勝が、そんなに殺しては可哀想ではないかと言うと、彦斎は、あなたも畑の茄子や胡瓜はちょうどよい頃にもいで漬物にするでしょう、あいつらも同じです、と平然と答えたという。勝は、自分が殺されなかったのは罪のない者を殺さなかったからかもしれない、と振り返った。一方で、ふだんは礼儀正しく穏やかで、親や妻子には優しかったとも伝わる。
墓は東京の池上本門寺にある。彦斎の写真は一枚も確かめられておらず、ネットで広まっている肖像写真は別人である。和月伸宏の漫画『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心は、彦斎をモデルの一人にしたと作者が語っており、小柄で女性のような容貌の人斬りという像は、そこから広く知られるようになった。