点字ブロックの敷設
概要
岡山の三宅精一が考えた点字ブロックが、岡山盲学校近くの交差点に世界で初めて敷かれた。いまは世界中の歩道と駅にある。
場所
34.66°N 133.92°E · 日本・岡山県
本文
点字ブロックを考えたのは、岡山市で旅館を営んでいた三宅精一である。三宅は1926年に岡山県の倉敷で生まれ、家業のかたわら、自動車のナンバープレートの雪を溶かす装置のような発明に取り組んでいた。1960年代の初め、白い杖をついた人が車の行き交う道を危うげに渡ろうとしている場面を目にしたことが、のちの仕事の出発点になったと伝えられる。1963年ごろから、目の見えない人が安全に歩くための工夫を自分の研究の題目にした。
その研究を後押ししたのが、大阪の日本ライトハウスの理事長だった岩橋英行との付き合いである。英行の父で同会を開いた岩橋武夫は、自身が若くして失明した人だった。三宅が飼っていたセント・バーナードの出産をきっかけに二人は親しくなり、三宅は視覚障害者の暮らしと、歩くうえで何に困っているかを知るようになった。
1965年、三宅は私財を投じて、表面に小さな突起を並べたコンクリートのブロックを作った。白い杖の先や靴の裏で突起を感じ取れば、そこが歩道の端であり、その先が車道だと分かる。紙の上の凸点を指で読む点字(点字の考案)になぞらえて、三宅はこれを点字ブロックと名づけた。ただし、ブロックの突起は文字を表すものではない。三宅は自宅に安全交通試験研究センターを置き、普及の仕事に専念するようになる。

1967年3月18日、岡山県立岡山盲学校に近い旧国道2号の原尾島交差点で、横断歩道のまわりに230枚の点字ブロックが敷かれた。これが世界で初めての敷設である。19世紀にルイ・ブライユが指で読む文字を考え、日本では明治の初めに京都盲唖院のような学校で盲教育が始まっていたが、町そのものに手がかりを埋め込む試みはこれが最初だった。
ブロックは岡山県から大阪府、京都府へと少しずつ広がった。1970年には、大阪府立盲学校の教職員の陳情を受けて、国鉄の阪和線我孫子町駅のプラットホームに初めて敷かれた。同じころ東京都の道路局も導入を決め、東京の高田馬場では大規模に敷かれた。弱視の人にも見分けやすいよう、色はこのころから黄色が多く使われるようになった。
はじめのブロックは突起が点状の一種類だけだった。1974年、建設省の補助で道路での歩行の誘導を研究する委員会が設けられ、細長い線状の突起を並べたブロックが考えられた。これで、点状は「止まれ・注意」、線状は「この向きに進め」を表すという、いまの組み合わせができあがった。同じ年、三宅は建設省道路局から研究への協力を頼まれ、研究センターを財団法人にした。
三宅は1982年7月10日、慢性肝炎のため56歳で死んだ。点字ブロックはその後も鉄道の駅を中心に急速に広まり、1993年に定められた福祉用具の研究開発と普及を促す法律では「視覚障害者誘導用ブロック」という名で位置づけられた。一方で、作る会社や敷く場所ごとに形や色がまちまちになり、かえって使う人を迷わせるという問題も生まれた。規格をそろえることが、その後の課題になった。
海外では、イギリス、オーストラリア、アメリカが1990年代の初めに同じ考え方を取り入れ、2000年のシドニー・オリンピックではすべての施設に敷かれた。いまでは韓国の地下鉄や欧米の駅のホームでも見かける。日本で生まれた道具が、ほとんど形を変えずに世界の町に入っていった例である。
2010年、岡山県視覚障害者協会が3月18日を「点字ブロックの日」として登録し、最初に敷かれた原尾島交差点には発祥の地を示す記念碑が建てられた。2019年3月18日には、検索サイトのGoogleが三宅を記念する絵を掲げている。足もとの黄色い帯は、一人の発明家が交差点で見た光景から始まったものである。