できごと

特別命令191号の紛失

Special Order 191
AD1862年9月13日
重要度 2
大英帝国カナダアメリカ合衆国デンマークアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領スペイン帝国スペインAD1862年9月13日フレデリック(メリーランド州)(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1862年9月13日の版図を描いています(8勢力)。

概要

南軍のリー将軍が出した作戦命令の写しが、葉巻を包んだ紙として野営地に落ちていた。拾った北軍はアンティータムで南軍の北部侵攻を止めた。

場所

フレデリック(メリーランド州)位置は特定されていない(誤差 ±km)
39.43°N -77.40°E · アメリカ合衆国・メリーランド州

関わった人(1)

ロバート・E・リーAD1807年1月19日–AD1870年10月12日 · 命令を出した南軍の司令官

本文

1862年9月13日の昼ごろ、メリーランド州フレデリックの郊外で、北軍の兵士が草の上に落ちていた紙の包みを拾った。中には葉巻が3本入っていた。包み紙は、南軍の北ヴァージニア軍が数日のうちにどこへ動くかを書いた、司令官ロバート・E・リーの作戦命令の写しだった。のちに「失われた命令」と呼ばれる特別命令191号である。

この年の夏、リーは第二次ブルランの戦いで北軍を破り、勢いに乗って北へ攻め込んだ。南北戦争で南部は国力で劣り、長く戦えば不利になる。北部の土地で大きな勝利をあげれば、北部の世論を揺さぶり、イギリスやフランスの承認を引き出せるかもしれない。9月初め、南軍はポトマック川を渡ってメリーランドに入った。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

9月9日ごろに起草された命令は、大胆なものだった。リーは軍をいくつにも分けた。ストーンウォール・ジャクソンの部隊などにハーパーズ・フェリーの北軍守備隊を囲ませ、ロングストリートの部隊は北のブーンズボロへ向かわせ、D・H・ヒルの師団は後衛とした。分かれた部隊はのちにふたたび合流する計画だった。北軍の動きは鈍いと見て、敵の目の前で軍を割る危険を取ったのである。命令は副官ロバート・チルトンの署名で各指揮官に配られた。

拾ったのは第27インディアナ義勇歩兵連隊の伍長バートン・W・ミッチェルだった。南軍が去った後の野営地に、北軍の第12軍団が入ったところだった。ミッチェルは紙の中身に気づいて軍曹に渡し、連隊長を通して軍団の司令部へ届けられた。司令部の副官の一人が、署名がチルトンの筆跡であることを見分けたとされる。紙はその日のうちに北軍ポトマック軍の司令官ジョージ・B・マクレランの手に渡った。マクレランは喜び、これでボビー・リーを打ち負かせなければ家に帰ってもいい、と部下に語ったと伝えられる。

ロバート・E・リーの肖像
ロバート・E・リーWikimedia Commons Julian Vannerson · Public domain

誰の写しで、誰が落としたのかは分かっていない。D・H・ヒルあての写しだったとする見方が多いが、ヒルは戦後、自分は別の写しを受け取っていたと主張した。ロングストリートは後年、自分の写しは食べてしまったと語っている。

マクレランは南軍の分散を知って前進を速め、9月14日にはサウス・マウンテンの峠で南軍を押し返した。リーはその夜までに北軍が命令を手にしたらしいことを知り、軍をシャープスバーグに集めた。9月17日、アンティータム川のほとりで両軍がぶつかった。この一日で両軍あわせて2万人を超える死傷者が出て、南北戦争でもっとも血の流れた一日とされる。南軍は持ちこたえたが、翌日の夜にポトマック川を渡ってヴァージニアへ引き揚げ、北部侵攻は終わった。

勝ったとはいえ、マクレランが拾った情報を十分に生かしたかどうかは、昔から議論がある。拾ってから攻撃するまでに時間をかけ、ハーパーズ・フェリーは15日に南軍に落とされた。南軍の兵力を実際よりはるかに多く見積もり、罠を恐れて慎重に動いたためとされる。アンティータムの後も追撃をしなかったことで、エイブラハム・リンカーンはのちにマクレランを解任した。

それでも、この引き分けに近い勝利の政治的な意味は大きかった。リンカーンはこれを機に、9月22日に奴隷解放の予備宣言を出し、翌年1月1日の奴隷解放宣言につなげた。戦争の目的に奴隷制の廃止が加わったことで、ヨーロッパの国々は南部を承認しにくくなった。

奴隷解放宣言に関わる図版:Hand colored Emancipation The Past and the Future by Thomas Nast
奴隷解放宣言Wikimedia Commons Thomas Nast · Public domain

命令を拾った正確な場所は分かっていない。いまのフレデリック郊外、採石場のあるあたりとされ、近くのモノカシー国立戦場跡に記念の標識が立っている。ミッチェルはアンティータムで脚を負傷し、その傷がもとで1864年に除隊、1868年に52歳で死んだ。一枚の紙の落とし物が戦局を変えた話として、特別命令191号はいまも南北戦争の逸話の代表に数えられている。

動画(1)

たった1つが大惨事!戦争の凡ミス3選【最悪の落とし物・新撰組解散の宴会・沖縄戦の前の悲劇】非株式会社いつかやる戦争の凡ミス三選の一つとして葉巻を包んだ命令書を語る

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