ソ連の対戦車犬
概要
赤軍が爆薬を背負わせた犬をドイツ軍の戦車の下へ走らせた兵器。訓練の誤りから味方の陣地で爆発することもあった。
場所
51.67°N 33.91°E · ウクライナ・ロシア西部(代表点はグルーヒウ)
本文
対戦車犬は、爆薬を背負わせた犬を敵の戦車の下にもぐり込ませて爆発させる兵器である。ソ連の赤軍が1930年代から訓練し、独ソ戦の始まりの後の1941年から1943年にかけて、ドイツ軍の戦車に向けて実際に使った。
ソ連の革命軍事評議会は1924年、犬を軍事に使うことを認めた。救助、負傷者の手当ての品の運搬、連絡、地雷や人の追跡、そりでの食料や負傷兵の運搬など、仕事は幅広かった。犬を動く地雷として使う考えは1930年代に生まれ、犬に背負わせる地雷も作られた。モスクワ州に犬の訓練学校が置かれ、続いて各地に12の学校ができ、そのうち3校が対戦車犬を育てた。赤軍には専門の訓練士がいなかったため、猟師や警官、サーカスの調教師が集められた。対戦車犬の部隊が正式に赤軍に加えられたのは1935年である。
はじめの計画では、犬は爆弾を目標まで運んで歯で留め具を引いて置き、訓練士のもとへ戻ることになっていた。爆弾は時限装置で爆発させる。しかし半年の訓練でも、これをこなせる犬はいなかった。一つの目標ならうまくいっても、目標や場所が変わると混乱し、爆弾をつけたまま戻ってきてしまう。実戦なら犬も訓練士も吹き飛ぶことになる。
そこで仕組みは簡単にされた。爆薬は犬の体に固定され、戦車に触れたときに爆発する。犬は助からない。目標も、決まった一両ではなく、どれでもよいから敵の戦車を探すことに変えられた。犬は空腹にさせられ、戦車の下に餌を置いて覚え込まされた。はじめは止まった戦車で、次はエンジンをかけ、空砲を撃って戦場の騒ぎに慣らした。犬は布の袋二つに入れた10から12キロの地雷を背負い、袋から20センチほど木の棒が突き出していた。戦車の下にもぐると棒が車体の底に当たり、爆発する。戦車は底がいちばん弱いので、そこを狙ったのである。
最初の一団、犬30頭と訓練士40人が前線に着いたのは1941年の夏の終わりだった。そこで深刻な問題が次々と明らかになった。燃料と弾を惜しんで、訓練では止まって撃たない戦車しか使っていなかったため、犬は動く戦車の下にもぐろうとしなかった。戦車のそばで止まるのを待つ犬は撃たれた。砲声におびえた犬は味方の塹壕へ駆け戻り、飛び込んだ拍子に爆発して兵を死なせた。これを防ぐため、戻ってくる犬は撃つしかなく、多くは訓練士自身が撃った。30頭のうち、ドイツ軍の戦車の近くで爆発したのは4頭だけで、6頭は味方の塹壕に戻って爆発し、3頭はドイツ兵に撃たれて体ごと持ち去られ、起爆の仕組みを知られることになった。
さらに、訓練に使ったのはディーゼルエンジンのソ連の戦車で、ガソリンで動くドイツの戦車ではなかった。においを頼りにする犬は、なじみのあるソ連の戦車のほうへ向かってしまった。ドイツ側は、ソ連兵は戦わずに犬を送ってくると宣伝に使った。
効果ははっきりしない。ソ連の資料には、犬がおよそ300両のドイツの戦車を傷つけたとするものがあるが、多くのロシアの歴史家は、計画を正当化するための宣伝だとみている。一方で、個々の戦果の記録はある。グルーヒウの近くでは6頭が5両を、スターリングラードの戦いでは飛行場の近くで13両を、クルスクの戦いではタマロフカの近くで16頭が突破してきた12両を止めたとされる。ドイツ軍は1941年から対戦車犬を知っており、戦場で見かけた犬はすべて撃つよう兵に命じた。犬は小さく低く速いので、戦車の上の機関銃では防ぎにくかった。

1942年を過ぎると、赤軍は対戦車犬をほとんど使わなくなり、訓練学校は地雷を探す犬や物を運ぶ犬を育てる方へ切り替えた。それでも訓練そのものは戦後も続き、終わったのは1996年6月だったとされる。アメリカ軍も1943年、爆弾を背負った犬を敵の陣地へ走り込ませる計画を試したが、犬が陣地に入らずに戻ってきてしまうため、同じ年の12月に打ち切った。第二次世界大戦は、人間だけでなく多くの動物を戦場へ送り込んだ戦争でもあった。