三豊百貨店崩壊事故
概要
1995年、ソウルの三豊百貨店が営業中に崩れ落ち、502人が死んだ。違法な設計変更と、危険を知りつつ営業を続けた判断が招いた。
場所
37.50°N 127.01°E · 大韓民国・ソウル特別市瑞草区
本文
三豊百貨店崩壊事故は、1995年6月29日の夕方、韓国の首都ソウルの瑞草区にあった三豊百貨店の建物が崩れ落ちた事故である。502人が死に、937人が負傷した。戦時を除けば韓国の歴史で最悪の惨事とされ、ずさんな設計の変更と、危険を知りながら営業を続けた経営陣の判断が招いた人災だった。
1988年のソウル・オリンピックの開催が決まると、ソウルとその周辺では建設ブームが起きた。韓国の建設会社は海外で高い評価を得ていたが、国内では工期に追われ、建築の基準も監督も甘かった。三豊グループがかつてのごみ埋め立て地に建物を建て始めたのは1987年のことである。当初の計画は4階建ての集合住宅だったが、のちにグループの建設部門の会長となる李準(イ・ジュン)が、途中で大きな百貨店に変えさせた。エスカレーターを通すために柱の一部を削り、ローラースケート場(のちに食堂街)にする5階を付け足した。
施工していた会社は、構造に重大な不安があるとしてこの変更を拒んだ。李準はその会社との契約を切り、自社の建設会社で工事を終わらせた。完成した建物は、梁の無い平らな床板を柱だけで支える造りだった。売り場を広げるため、柱の太さは設計で必要とされた80センチから60センチに細められ、柱の間隔も広げられた。5階の食堂街には、温水の管を通した厚いコンクリートの床暖房(オンドル)が敷かれ、重さはさらに増した。1990年7月に開店した百貨店は、1日に4万人が訪れる人気店となった。
屋上には、空の状態でも1台15トンある冷房装置が3台置かれていた。騒音への苦情を受けて1993年にこれを屋上で引きずって移したことで、ひびが入ったとされる。装置は、のちに5階で最もひどいひびが見られた柱の真上に置かれた。しかも5階の柱は下の階の柱と位置がずれており、重みが床板を通じて伝わっていた。
1995年4月、南館の5階の天井にひびが現れた。経営陣がとった対応は、最上階の商品や店を地下へ移すことだけだった。6月29日の朝、ひびは急に増え、5階の一部が閉じられた。崩壊の5時間ほど前から大きな音が響き始め、冷房を止めたときには床のひびは幅10センチに広がっていた。招かれた専門家も崩壊の危険を指摘した。緊急の役員会で客と従業員を避難させるべきだという声が出たが、李準は売り上げが落ちるのを恐れて拒んだとされ、経営陣は自分たちだけ建物を出た。
午後5時52分ごろ、きしむ音とともに従業員が警報を鳴らし始めたが、遅すぎた。屋上が抜けて冷房装置が5階に落ち、5階が崩れると、エスカレーターのために弱められていた柱が次々に折れた。20秒足らずで南館はほぼすべて地下まで崩れ落ち、1500人以上が閉じ込められた。
財産の被害はおよそ2700億ウォンにのぼったとされる。建物は北館と南館を吹き抜けでつないだ造りで、崩れたのは南館のほぼ全体だった。北館は形を残したが、のちに取り壊された。
救出は何日も続いた。崩れ残った建物が倒れる危険から捜索の打ち切りが発表されたが、家族らの強い抗議で続けられた。雨水を飲んで命をつないだ人もおり、最後に救い出された19歳の店員は、崩壊から17日目にほとんど無傷で見つかった。
1995年12月、李準は業務上の過失などで懲役10年6か月の判決を受け(控訴審で7年6か月に減刑)、百貨店の社長だった息子も実刑となった。建築の許可をめぐって賄賂を受け取った区の公務員たちも有罪となった。前年の1994年には漢江にかかる聖水大橋が崩れて32人が死んでおり、相次ぐ崩壊は、急ぎすぎた高度成長の陰の手抜きを韓国社会に突きつけた。同じ1995年には日本でも阪神・淡路大震災が起き、都市の建物の安全が東アジアの両国で問われた年となった。百貨店の跡地には、いまは高層の集合住宅が建っている。