パリの街灯
概要
ルイ十四世は、パリに初めて警察の長官を置き、ラ・レニーを任じた。夜のパリは暗く、路地には盗賊が潜み、人は松明持ちを雇って歩いた。ラ・レニーが最初に打った手の一つが、明かりである。通りの上に縄を渡し、蝋燭を入れたランタンを吊るす。九百あまりの通りに二千七百を超えるランタンが下がり、冬の夜ごとに住民の当番が火を入れた。費用は住民の税でまかなった。暗がりを減らすことが、見張りを増やすことと同じ働きをする。のちにパリが「光の都」と呼ばれるのは、この夜の明かりから始まったとも言われる。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
17世紀の後半、パリはヨーロッパでも指折りの大都市だった。人口は50万に近かったとされる。中世から続く細い路地が迷路のように入り組み、道は泥とごみにまみれていた。そして、夜は暗かった。日が暮れれば、明かりは家々の窓から漏れるものと、教会や聖像の前の小さな灯だけになる。路地には盗賊や追いはぎが潜み、夜に出歩くのは命がけだった。
夜に出かける人は、松明やランタンを持つ明かり持ちを雇った。明かりは、金で買うものだった。金のある者は従者に松明を持たせ、金の無い者は暗がりを手探りで歩くか、家にこもるしかなかった。風刺詩人のボワローは、夜のパリの物騒さと騒がしさを嘆く詩を残している。

1667年3月、ルイ14世はパリに新しい役職を置いた。警察総代官である。それまでパリの治安は、権限の重なり合ういくつもの役所がばらばらに受け持っていた。新しい役職はそれをまとめ、王の名のもとで町の秩序を引き受ける。任じられたのは、ガブリエル・ニコラ・ド・ラ・レニーという法律家で、彼は30年にわたってこの職を務めることになる。
ラ・レニーに任された仕事は広かった。犯罪の取り締まりだけでなく、道の清掃、火事への備え、市場の物の値段や品質の監督、出版物の検閲、物乞いや浮浪者の扱いまでが含まれていた。当時の「警察」という言葉は、町をよく治めること全般を指していたのである。そのラ・レニーが早い時期に打った手の一つが、夜の明かりだった。
1667年の秋、パリの通りにランタンを吊るすことが命じられた。通りの両側の家の高いところに縄を渡し、そのまん中にガラスの箱のランタンを吊るす。中には獣脂の蝋燭を立てる。縄は滑車で上げ下げでき、地上から火を入れられるようになっていた。まもなく、900あまりの通りに、2700を超えるランタンが下がった。
誰が火を入れるのか。それは通りの住民の役目だった。住民の中から毎年当番が選ばれ、夕方になると縄を下ろして蝋燭に火をつけ、また引き上げる。蝋燭は高価だったので、灯すのは日の短い秋から春までで、月の明るい夜は灯さなかった。費用は、「泥とランタンの税」と呼ばれる税として住民から集めた。道を掃除する費用と、明かりの費用が、同じ一つの税でまかなわれたのである。
なぜ明かりだったのか。見張りを増やそうとすれば、人が要る。夜警を雇い、給金を払わなければならない。しかも、夜警も暗ければ何も見えない。明かりなら、一つのランタンが一晩じゅう通りを照らし続ける。盗賊は顔を見られることを嫌う。そして、通りを行き交う人の誰もが、見張りの目になる。暗がりを減らすことが、見張りを増やすことと同じ働きをした。
パリの明かりは、外国から来た旅人を驚かせた。夜の町の通りが一面に照らされていること自体が、王の力と町の豊かさを見せつけるものだった。ルイ14世の治世の記念のメダルには、町の明かりと安全をたたえるものもある。パリにならって、アムステルダムやロンドンなど、ヨーロッパの他の都市も街灯を整えていった。
18世紀の半ばには、蝋燭のランタンに代わって、油を燃やし、反射板で光を道へ向ける新しい灯が工夫された。19世紀に入ると、ガス灯と夜の街の時代が来る。パリが「光の都」と呼ばれるようになった由来には、啓蒙の思想の光だという説も、19世紀のガス灯や電灯の輝きだという説もあり、一つには決まらない。17世紀の蝋燭のランタンに、その始まりを見る人もいる。
街灯は、明かりであると同時に、警察の道具だった。そして、国が夜を引き受けたしるしでもあった。それまで、夜はそれぞれが自分の金で照らすものだった。ラ・レニーのランタンは、夜の明かりを、すべての住民が負担し、すべての住民が使えるものに変えた。皮肉なことに、のちの革命のとき、パリの民衆は憎い相手を街灯の綱に吊るせと叫ぶようになる。
それから300年あまりたって、同じことを逆の側から思い知らされる夜があった。1977年の夏、ニューヨークで大停電が起き、町じゅうの明かりが消えた(明かりが消えた夜)。明かりが消えた夜に何が起きたかは、明かりが町の中で果たしてきた役割を、改めて浮かび上がらせた。