明かりが消えた夜
概要
夏の夜、ハドソン川沿いの変電所に雷が落ち、送電の網が次々に切れて、一時間ほどでニューヨークのほぼ全域が暗くなった。十二年前にも大停電があったが、そのときは人々が助け合ったと語られている。この夜は違った。財政破綻の寸前で、失業が増え、警官も減らされていた街で、暗がりに紛れて千六百を超える店が壊されて荒らされ、千件を超える火事が起きた。明かりが戻るまで、およそ二十五時間かかった。街灯は、見張りでもある。そのことを、明かりが消えたときに人々は知った。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
1977年7月13日は、蒸し暑い夏の水曜日だった。夜8時半を過ぎたころ、ニューヨーク市の北、ハドソン川沿いのウェストチェスター郡にある変電所に雷が落ちた。遮断器が開き、電気は別の送電線へ回る。そこへまた雷が落ちる。本来なら自動で戻るはずの仕掛けがうまく働かず、市に電気を送る電力会社コン・エディソン(1880年代にトーマス・エジソンがマンハッタンで始めた電灯事業の流れをくむ会社)の運転員と、州の送電網を見張る側とのやりとりも食い違った。外からの送電線が一本ずつ切れていき、残った発電所は負荷に耐えられずに止まる。9時半近く、クイーンズの一部などを除くニューヨーク市のほぼ全域が暗くなった。
街には、12年前の記憶があった。1965年11月、アメリカ北東部からカナダの一部にかけて大停電が起き、およそ3000万人が闇に包まれた。そのときのニューヨークは、のちに語り草になる。市民が交差点に立って車を誘導し、見知らぬ人どうしが懐中電灯を分け合い、盗みはほとんど無かった、と。停電が始まったのが夕方で、多くの人がまだ勤め先や帰り道にいたことも、落ち着きを保てた理由の一つとされる。
1977年の夜は違った。ニューヨークは2年前、財政破綻の寸前まで追い込まれていた。連邦政府の救済を大統領が渋ると、地元の新聞は「フォードから市へ、くたばれ」という見出しを掲げた。市は警官、消防士、教師を大量に減らし、ごみの収集も滞った。工場が街を去って失業が増え、とくに若い黒人とヒスパニックの若者の失業は深刻だった。その夏は「サムの息子」と名乗る連続殺人犯がまだ捕まっておらず、街は神経をとがらせていた。
暗くなってまもなく、店のシャッターがこじ開けられ始めた。被害がひどかったのは、ブルックリンのブッシュウィックやベッドフォード=スタイベサント、ブロンクス、ハーレムといった、すでに貧しさが深まっていた地区である。商店街の通りが丸ごと荒らされ、火が放たれた。ブロンクスでは車の販売店から新車がおよそ50台持ち出されたと伝えられる。消防は手が足りず、燃えるにまかせた建物もあった。
明かりがすべて戻ったのは翌14日の夜で、停電はおよそ25時間続いた。壊されたり荒らされたりした店は1600を超え、火事は1000件を超えた。逮捕された人は3700人を超え、数え方によっては4500人ほどとされる。拘置所は溢れ、裁判所は何日も夜通しで手続きに追われた。被害額は数億ドルにのぼると見積もられた。
この夜をめぐっては、一つの伝説が語り継がれている。電器店から持ち出された音響の機材やターンテーブルが、ブロンクスの若者たちの手に渡り、それを機に多くの若者がDJを始めた、というものだ。数年前に同じブロンクスで生まれたばかりのヒップホップ(ヒップホップの誕生)が、この夜を境に一気に広がった、という語りである。当事者の思い出話として語られるもので、どこまで実際の広がりを説明するかは分からない。
なぜこの夜だけが荒れたのか。あとで多くの説明が出された。貧しさと失業、市が財政難を理由にその地区を見捨てていたこと、真夏の暑さ、そして単に暗くて捕まりにくかったこと。どれか一つでは説明しきれない。言えるのは、明かりが消えたとたん、それまで押さえ込まれていたものが一度に外へ出た、ということである。
停電そのものは技術の事故だった。のちの調査は、落雷そのものより、異常が起きてから全市が止まるまでの1時間ほどのあいだに、手動で負荷を切り離すなどの手を打てなかったことを問題にした。電力会社と州は、連鎖して止まる仕組みを見直すことになる。しかし、この夜が人々の記憶に残ったのは、送電の弱さではなく、街の弱さを見せたからだった。
300年前、パリの街灯は、警察が夜の街を見張るために灯したものだった。それから三世紀、明かりは当たり前になり、人々はそれが見張りでもあることを忘れていた。1977年の夏、ニューヨークは明かりが消えたときにそれを思い出した。同時に、見張りだけでは足りないことも知った。12年前の夜に人々を助け合わせたのは、明かりではなかったからである。