沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故
概要
沖縄戦を前に、兵と弾薬を積んだ軽便鉄道の列車が南風原で爆発し、約220人が死んだ。日本の鉄道事故で最悪の犠牲とされ、戦時中は伏せられた。
場所
26.19°N 127.73°E · 沖縄県島尻郡南風原町
本文
1944年12月11日、沖縄本島南部の南風原村(いまの南風原町)神里のあたりを走っていた軽便鉄道の列車が、轟音とともに爆発した。積んでいた弾薬が次々と誘爆し、あたりは火の海になった。兵士や乗り合わせた女学生など約220人が死んだ。日本の鉄道事故で最悪の犠牲を出した事故とされるが、軍は事故を伏せ、戦後も長く知られなかった。
沖縄県営鉄道は、那覇を起点に与那原・嘉手納・糸満へ延びる、線路の幅の狭い軽便鉄道だった。大正の初めに開業し、さとうきびや人を運ぶ島の足になっていた。太平洋戦争の終わりが近づくと、アメリカ軍の上陸に備えて沖縄に第32軍が置かれ、鉄道は兵や物資の輸送に使われるようになった。第32軍ができたのは1944年3月である。7月にサイパンの戦いで日本軍が敗れると、アメリカ軍の次の狙いは台湾か沖縄と見られ、島には本土や大陸から部隊が次々に送り込まれた。10月にはレイテ沖海戦で連合艦隊が大きな損害を受け、同じ月の10日には沖縄が大空襲を受けて、那覇の町の大半が焼けていた。
この年の12月、沖縄南部を守っていた第9師団が台湾へ移されることになった。その穴を埋めるため、北部や中部にいた第24師団が南部へ移り、県営鉄道は大がかりな兵員輸送に追われていた。
12月11日、兵と武器弾薬を積んだ6両の列車が嘉手納駅を出た。途中の古波蔵駅で、機関車だけが向きを変えて燃料を補給しに那覇駅の方へ行き、ガソリン入りのドラム缶を積んだ屋根のない貨車1両と屋根のある貨車1両を引いて戻ってきた。この2両を機関車のすぐ後ろにつなぎ、もとの6両を後ろに連結して、列車は糸満へ向かった。客車代わりの車両には兵士のほか、那覇から乗った帰宅途中の昭和高等女学校の生徒もいた。
荷を満載した列車は、喜屋武駅を過ぎた上り坂で速度を落とした。神里のあたりにさしかかったとき、突然大爆発が起きた。爆音は那覇の町や島の南部全体に響いたという。列車の兵士210人前後、女学生8人、乗務員3人のあわせて約220人が犠牲になった。助かったのは、とっさに貨車から飛び降りて離れた女学生2人と乗務員1人だけだった。現場に残っていた時計の針は4時半ごろを指していた。最後尾の1両は連結が外れ、燃えながら坂を下って那覇の方へ戻り、津嘉山駅まで達した。
原因は、機関車の煙突から出た火の粉が、すぐ後ろの屋根のない貨車に積んだドラム缶のガソリンに燃え移ったことだった。軍は屋根のない貨車にガソリンや弾薬を積むことを禁じていたが、守られていなかった。しかも線路沿いのさとうきび畑には、軍の弾薬が数百トンも野積みされていた。それにも火が移って爆発が続き、まわり数百メートルが燃え、民家にも火が広がった。爆発の音は一晩じゅう聞こえ、村人は壕に逃げ込んだ。積んでいた医薬品も吹き飛んだ。
第32軍の参謀長・長勇はこの事故に激怒した。軍内への注意の文書には、軍ができて以来はじめての不祥事で、軍の戦力が半分になったといっても言いすぎではない、敵がいま上陸すれば応戦する弾薬がなく玉砕するほかない、という趣旨が書かれている。上陸を前に弾薬を大量に失ったことは、軍にとってそれほど大きな痛手だった。
事故には箝口令が敷かれ、同じ年の8月に起きた学童疎開船・対馬丸の撃沈と同じく、戦時中は表に出なかった。翌1945年3月の空襲のころには鉄道も止まり、4月、アメリカ軍が上陸して沖縄戦が始まる。県営鉄道は戦争で壊れたまま、戦後ふたたび走ることはなかった。

事故の様子は、のちに那覇市史に集められた関係者の証言などで知られるようになった。2020年にはテレビのドキュメンタリーが証言をもとに事故を再現している。沖縄戦の陰に隠れてきたこの事故は、戦場になる前の島で、すでに多くの命が失われていたことを伝えている。