ナイラ証言
概要
クウェート侵攻の後、15歳の少女ナイラが米議会の人権議員連盟で、イラク兵が保育器から新生児を投げ出したと涙ながらに語った。のちに偽りと分かった。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ジョージ・H・W・ブッシュAD1924年6月12日–AD2018年11月30日 · 証言の話を演説で繰り返した米大統領本文
1990年8月2日、イラクが隣国クウェートに攻め込み、数日のうちに全土を押さえた。イラン・イラク戦争で膨らんだ借金と、石油の値段や油田をめぐる争いが背景にあった。占領下のクウェートでは、役所や商店、病院から物が持ち去られているという知らせが国外へ伝わった。亡命したクウェート政府の閣僚は9月、イラク兵が病院の保育器を奪い、早産の赤ちゃん22人が死んだと発表した。同じ話は外交官の書簡や新聞の記事でも繰り返されたが、イラクが現地への立ち入りを許さなかったため、確かめる手立ては無かった。
アメリカでは、クウェートを助けるために軍を送るべきかどうか、世論が割れていた。クウェート大使館は「自由クウェートのための市民の会」という団体を作り、アメリカの大手広告会社ヒル・アンド・ノウルトンに宣伝を頼んだ。この会社がクウェート側から受け取った額は、最大で1200万ドルと見積もられている。会社は世論調査と聞き取りを重ね、人々の心を最も動かすのはイラク兵の残虐な行いの話、とりわけ保育器の話だという結論を得た。

1990年10月10日、ワシントンの連邦議会で、議員の有志が作る人権議員連盟が公聴会を開いた。最後に証言台に立ったのが、名字を伏せて「ナイラ」とだけ名乗った15歳の少女だった。少女は、侵攻の2週目にアル・アダン病院で手伝いをしていたとき、銃を持ったイラク兵が入ってきて、赤ちゃんを保育器から取り出し、保育器を奪って、冷たい床に置き去りにして死なせたのを見た、と涙ながらに語った。証言は4分ほどで、宣誓のうえでのものではなかった。議員連盟は正式な委員会ではなかったからである。
広告会社は公聴会を撮影し、その映像をアメリカ中のテレビ局へ配った。その夜、ABCとNBCの報道番組が証言の一部を流し、3500万から5300万人が見たと推定されている。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領はその後の数週間で、少なくとも10回この話を演説で繰り返した。武力の行使を支持する演説で、7人の上院議員がナイラの証言に触れた。1991年1月12日、上院は52対47の僅差で武力の行使を認め、湾岸戦争が始まった。
戦争が終わり、クウェートに記者が入れるようになると、話の土台が揺らぎ始めた。1991年3月、ABCの記者は現地を取材し、看護師や医師が逃げ出したために赤ちゃんを含む患者が亡くなったことはあったが、イラク兵が保育器を奪って何百人もの赤ちゃんを死なせたことは、ほぼ確実に無かったと伝えた。当初この話を裏づける報告を出した人権団体アムネスティ・インターナショナルも、信頼できる証拠は見つからなかったとして訂正した。
決定打は1992年1月6日に出た。ジャーナリストのジョン・マッカーサーがニューヨーク・タイムズに寄稿し、ナイラが駐米クウェート大使の娘であることを明らかにした。少女はクウェートの王家の一員でもあった。議員連盟を率いた議員は、家族の身を守るためという大使の頼みで素性を伏せたと説明した。広告会社は、証言の文面作りや練習にも手を貸していたと報じられた。クウェート政府がのちに調査会社に頼んで行った調べでは、少女は、保育器の外にいる赤ちゃんを見たのは一人だけで、それもほんの一瞬だったと述べ、病院にいたのも数分立ち寄っただけだったと語った。
イラク軍の占領のもとで、略奪や拷問、殺害が実際に数多くあったことは別に確かめられている。それでも、戦争に踏み切るかどうかという議論の最中に、出どころを伏せた作り話が大統領の口から何度も語られたことの重みは変わらない。ナイラ証言は、戦争を始めるために敵の残虐さを誇張して広める宣伝の典型として、いまも報道と広報の倫理を論じるときに真っ先に引かれる例になっている。