アフリカの牛疫
概要
1887年頃、インドかアラビアから連れてこられた牛とともに、牛疫がアフリカの角に入った。免疫の無い大陸を、十年で南端まで駆け抜けた。牛の八割から九割が死んだ地域がある。バッファローとヌーとキリンも死んだ。牧畜で生きる人々が、生活の基盤を一度に失い、飢饉と天然痘が重なった。人口が激減した土地に草が茂り、ツェツェバエが広がった。無人になった草原を、ヨーロッパ人が手つかずの自然として見出し、そこに保護区を設けた。
場所
-1.29°N 36.82°E · ケニア
本文
牛疫は、牛や水牛、そして多くの野生の偶蹄類がかかるウイルスの病気である。高い熱が出て、口の中がただれ、ひどい下痢が続き、多くは1週間から2週間で死ぬ。人にはうつらないが、家畜に頼って生きる人々にとっては、人の疫病に劣らない災いだった。ユーラシアでは古くから繰り返し流行し、18世紀のヨーロッパでは何百万頭もの牛を殺して、獣医学の学校が生まれるきっかけにもなった。
アフリカのサハラより南には、この病気はほとんど入っていなかったと考えられている。入口になったのは、1887年ごろの紅海沿岸である。このころイタリアは、いまのエリトリアに進出し、マッサワの港を拠点にしていた。軍の食料や運搬のため、インドやアデンなどから船で牛が運び込まれた。その牛が牛疫を持ち込んだとする説が有力である。ロシアなど別の土地から来た牛を疑う説もあり、経路は確定していない。確かなのは、1887年から1889年ごろにかけて、外から持ち込まれた牛疫がアフリカの角で広がり始めたことである。

アフリカの牛と野生動物は、この病気にまったく免疫を持っていなかった。牛疫は、まずエチオピアとスーダンを襲い、1890年ごろには東アフリカ、いまのケニアやタンザニアの高原に達した。そこから南へ進み、1896年にはザンベジ川を越え、1897年には南アフリカに入った。わずか十年ほどで、大陸を北東から南端まで駆け抜けたのである。
地域によっては、牛の8割から9割が死んだと推定されている。野生動物も倒れた。アフリカスイギュウ、ヌー、エランド、キリン、イボイノシシ、クーズー。当時の旅行者や役人は、何キロにもわたって白い骨が散らばる草原を見たと書き残している。生きた獣の姿が無い、という記述も少なくない。

牛で生きる人々は、暮らしの土台を一度に失った。東アフリカのマサイの人々にとって、牛は食べ物であり、財産であり、社会そのものだった。結婚のときに贈るのも牛であり、年齢の組の儀礼にも牛が欠かせず、人の名誉も牛の数で測られた。その牛が消えた。そこへ干ばつと飢饉が重なり、さらに天然痘の流行が弱った人々を襲った。この時期にマサイの人口の3分の2が失われたとする説もある。推定には大きな幅があるが、破局的な打撃だったことは確かである。エチオピアでは、1888年から1892年ごろの大飢饉が「悪い日々」と呼ばれて記憶されている。人口の3分の1が死んだともいわれる。南部アフリカでも、牛を中心に暮らすツワナやヘレロ、ショナやンデベレの人々が大きな打撃を受けた。
牛疫は、土地の姿も変えた。牛がいなくなり、人がいなくなった土地では、耕作も放牧も止まる。草が伸び、藪が茂った。そこへ、生き延びた野生動物が戻り、増えていった。そして藪と野生動物とともに、ツェツェバエが勢力を広げた。ツェツェバエは、トリパノソーマという寄生虫を運ぶ。牛にはナガナ病を、人には眠り病を起こす。牛疫が去った後も、ツェツェバエが住み着いた土地には、もう牛を戻せなくなった。東アフリカでは20世紀の初めに眠り病の大流行が起き、多くの人が死んでいる。牛疫はツェツェバエの地図を書き換えた、と研究者は言う。

このころアフリカの内陸に入ってきたヨーロッパ人は、人影の少ない草原に、野生動物の群れが草を食む光景を見た。そしてそれを、太古から変わらないアフリカの原野だと受け取った。実際には、十年ほど前まで人が住み、牛を飼っていた土地である。やがてそこに狩猟の保護区が設けられ、のちに国立公園になった。南アフリカのクルーガー、タンザニアのセレンゲティ、ケニアのマサイマラ。保護の名のもとに、もとの住民が締め出されることもあった。「手つかずの自然」という見方そのものが、疫病の後の風景の上に作られていたことを、近年の環境史の研究は繰り返し指摘している。
時期も重なっていた。1884年から85年のベルリン会議とアフリカ分割で、ヨーロッパの国々はアフリカを分け合う取り決めを交わし、まさにこの十年のあいだに、内陸へ軍と役人を送り込んでいった(アフリカ分割)。抵抗するはずの人々は、牛を失い、飢え、疫病の中にいた。もちろん、牛疫が無くても征服は進んだだろう。この因果を単純にしてはならない。それでも、抵抗する力が大きく削がれたことは、多くの歴史家が指摘している。南部アフリカでは、1896年に始まったショナやンデベレの人々の蜂起の背景の一つに、牛疫と、それを防ぐという名目で植民地政府が健康な牛まで殺させたことへの怒りがあったとされる。南アフリカでは、牛疫がアフリカ人の農民にもアフリカーナーの農民にも打撃を与え、その混乱はボーア戦争の直前の社会を揺さぶった。

この大流行のさなかに、対策の研究も始まった。南アフリカに招かれたドイツのロベルト・コッホらは1897年、病気から回復した牛の胆汁や血清を使って免疫をつける方法を試み、被害をいくらか抑えた。しかし牛疫はアフリカに居座り、20世紀を通じて何度も流行を繰り返した。1980年代の初めにも、西アフリカから東アフリカにかけての広い地域で大流行が起き、ナイジェリアだけでも数十万頭の牛が死んだとされる。
牛疫を完全に消し去るには、さらに長い時間と、国境を越えた協力が要った。ワクチンが改良され、遊牧民の家畜まで接種を届ける取り組みが続けられた末、2011年、牛疫は根絶が宣言された(牛疫の根絶)。人の病気の天然痘に続いて、人類が地上から消し去った二つ目の病気である。19世紀末にアフリカを縦断した疫病は、草原の風景と人々の暮らしと、そして大陸の歴史の流れまで変えた後で、ようやく姿を消したのである。