不良華族事件
概要
東京のダンスホールの教師の検挙から、伯爵夫人らの不倫や賭博が次々に明るみに出た華族のスキャンダル。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1933年(昭和8年)11月13日、東京・赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の主任舞踏教師、小島幸吉が警視庁に検挙された。フロリダは東京でも指折りの豪華な内装を誇る店で、小島は「日本一の好男子」を自称し、女優やダンサー、良家の娘、裕福な既婚女性など多くの女性と関係を持っていたとされる。当時は既婚女性の不貞を罰する姦通罪があり、小島の行いは取り締まりの対象になり得た。2日後の東京朝日新聞は、小島を「色魔」と呼んでこの件を大きく報じた。昭和の初めの東京では社交ダンスが流行し、ダンスホールが次々に開いていた。男女が体を寄せて踊る場所は風紀を乱すものとして警察に目を付けられ、営業には厳しい取り締まりが重ねられていた。
騒ぎを大きくしたのは、取り調べの中で小島が口にした名前だった。自分に女性客を紹介したのは、歌人で伯爵の吉井勇の妻・徳子だというのである。徳子は小島の愛人で、彼の気持ちをつなぎとめるために、友人の有閑マダムたちを次々と相手として引き合わせていた。事件が報じられると徳子は身を隠したが、警視庁は彼女を捜し出して取り調べた。その供述から、文壇や画壇の名士たちが花札や麻雀で常習的に賭博をしていたことまで明らかになり、作家の久米正雄や里見弴らが賭博の疑いで検挙された。
世間がとりわけ注目したのは、徳子の家柄である。新聞は連日のように続報を載せ、関わった女性たちの名や家柄を書き立てた。徳子は伯爵柳原義光の娘で、義光の叔母の柳原愛子は明治天皇の側室であり、大正天皇の生母だった。皇室にきわめて近い一族である。しかも義光の妹は歌人の柳原白蓮で、1921年に夫のもとを去って愛人と駆け落ちした「白蓮事件」で世間を騒がせたばかりだった。さらにこの少し前、義光自身が、男色の相手だった元役者に手切れ金を要求されて訴訟沙汰になっていた。柳原家のスキャンダルは三度目だった。
徳子の遊び仲間には、歌人斎藤茂吉の妻・輝子や、男爵家の七男・近藤廉治とその妻・泰子らがいた。宗秩寮総裁だった木戸幸一の日記には、皇宮警察の調べとして、徳子が1931年から近藤廉治と関係を持っていたことが記されている。輝子はこの事件のために、夫の茂吉と長く別居することになった。
徳子は警視庁に一晩留め置かれたあと実家に帰され、姦通罪で起訴されることはなかった。しかし華族の身分を管理する宮内省は処分に動いた。12月21日の宗秩寮審議会で、徳子は華族としての待遇を止める「礼遇停止」、近藤廉治・泰子夫妻は華族の身分を奪う「除族」、徳子の夫の吉井勇と廉治の兄の近藤滋弥は監督責任を問われて「訓戒」と決まった。吉井は隠居を申し出たが認められず、のちに徳子と離婚した。
一方で、たび重なる醜聞の元にいた柳原義光には、何の処分も下されなかった。審議会では議論にすらならず、新聞記者が自宅に押しかけて進退を問うても、義光は隠居も爵位の返上もしなかった。皇室に近い家への配慮が働いたと受け止められ、厳しい処分を期待していた世間を失望させた。叔母の白蓮は、事件の前から徳子にダンスホール通いをやめるよう説き、騒ぎのあとは記者に頭を下げている。
事件が起きたのは、昭和恐慌で農村が困窮し、前年には五・一五事件で首相が殺された時代だった。上流階級の享楽は、こうした世相の中で一層強い反感を呼んだ。華族は「皇室の藩屏」として特権を与えられていたが、この事件はその権威が内側から揺らいでいることを世間に印象づけた。華族は1884年の華族令で公・侯・伯・子・男の爵位を与えられた身分で、家の体面を保つことが何よりも求められた。その中から、ダンスホールと賭博と不倫が一度に出てきたのである。ダンスホールはその後も締めつけを受け、1940年には東京のホールがすべて閉じられた。