できごと

リョコウバトの絶滅

Passenger pigeon
AD1914年9月1日
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコグレートブリテン及びアイルランド連合王国ニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1914年9月1日シンシナティ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1914年9月1日の版図を描いています(11勢力)。

概要

かつて北アメリカで最も数の多い鳥だった。推定50億羽。群れが通ると空が数日暗くなったと記録されている。1860年代から、電信で群れの位置を知らせ、鉄道で運ぶ商業的な狩猟が始まった。この鳥は密集して繁殖するので、繁殖地を襲えば一挙に絶える。40年で消えた。最後の一羽マーサが、1914年9月1日午後1時、シンシナティ動物園で死んだ。これほど多い種でも絶滅しうるという事実が、アメリカの自然保護法制を動かした。

場所

シンシナティ
39.10°N -84.51°E · アメリカ・オハイオ州

本文

十九世紀の初め、北アメリカでもっとも数の多い鳥はリョコウバトだった。推定では三十億羽から五十億羽がいたとされ、当時の北アメリカの鳥すべての四分の一から三分の一を占めていたと考えられている。地球上でもっとも個体数の多い鳥の一つだった。

その群れの記録は、いまでは信じがたいものばかりである。1813年、鳥類画家のジョン・ジェームズ・オーデュボンは、ケンタッキー州で頭上を通る群れに出会った。真昼の日の光が日食のように遮られ、糞が雪のように降ってきた。彼は時計を手に群れを数えようとしたが、二十分ほどで諦めた。群れは三日間通り続けたと書いている。1866年にカナダのオンタリオ州南部で目撃された群れは、幅一・五キロメートル、長さ五百キロメートルに及び、通り過ぎるのに十四時間かかったと記録されている。三十五億羽ほどと見積もられた。

リョコウバトの幼鳥・雄・雌(ルイ・アガシ・フエルテス画、1910年)
リョコウバトの幼鳥・雄・雌(ルイ・アガシ・フエルテス画、1910年)Wikimedia Commons Louis Agassiz Fuertes · Public domain

リョコウバトは、巨大な集団で巣を作った。一つの営巣地が数百平方キロメートルに広がり、一本の木に数十から百を超える巣がかかり、鳥の重さで枝が折れた。1871年、ウィスコンシン州の営巣地は二千平方キロメートルあまりに広がり、一億羽以上が集まったと推定されている。ところが一羽の雌が一度に産む卵は、ふつう一つだけだった。数の多さと、極端に密集する習性と、少ない産卵数。この組み合わせが、この鳥の運命を決めることになる。

人がこの鳥を食べるのは新しいことではなかった。北アメリカの先住民は昔から鳩を獲っていたし、ヨーロッパからの入植者にとっても、空から降ってくるような安い肉だった。十八世紀から十九世紀の初めにかけて、使用人や奴隷に与える粗末な食べ物とみなされたほどである。群れは毎年、ブナやナラの実がよく実った森を探して移動し、営巣する場所も年ごとに変わった。それが、ある意味では鳩を守ってもいた。どこに現れるか、前もって分からなかったからである。

リョコウバトの雄を描いた絵(林、1900年頃)
リョコウバトの雄を描いた絵(林、1900年頃)Wikimedia Commons K. Hayashi · Public domain

1850年代から、狩りは商売になった。群れや営巣地が見つかると、電信で各地の狩猟者に知らせが飛び、狩猟者は鉄道で現地へ向かい、獲った鳩は樽に詰められて鉄道で都市の市場へ送られた。安い肉として大量に売られたのである。散弾銃を群れに撃ち込めば一発で何十羽も落ちた。餌をまいた場所に大きな網をかぶせ、一度に何百羽も捕らえた。目を縫いつぶした鳩を止まり木につないで仲間を呼び寄せる囮も使われ、英語で密告者を指す言葉はここから来たといわれる。営巣地では木を切り倒し、硫黄を燃やした煙で雛や親鳥を落とした。

1878年、ミシガン州ペトスキーの近くにできた営巣地では、五か月のあいだ毎日おびただしい数の鳩が出荷され、捕らえられた数は数百万羽に及んだとされる。これが最後の大規模な営巣地になった。

リョコウバトの雌を描いた絵
リョコウバトの雌を描いた絵Wikimedia Commons Hayashi and Toda (artists), Charles Otis Whitman (author). · Public domain

狩りだけが原因ではなかった。リョコウバトは、大きな群れでなければうまく繁殖できなかった可能性が高い。群れが巨大であれば、天敵が食べきれずに多くの雛が生き残るが、群れが小さくなれば、雛の多くが食べられてしまう。集団の存在そのものが、繁殖の行動を促す合図だったという見方もある。個体数がある線を下回ると、繁殖の成功率が急に落ちる現象は、アリー効果と呼ばれる。リョコウバトは、まだ数万羽が残っていた時点で、すでに回復できない段階に入っていたのかもしれない。さらに、主な餌だったブナやナラ、クリの実を実らせる東部の落葉樹林が、十九世紀を通じて農地と材木のために切り開かれていった。

1880年代になると、野生の群れはめったに見られなくなった。1900年3月、オハイオ州パイク郡で少年が撃ち落とした一羽が、野生のリョコウバトの最後の確かな記録とされる。残されたのは、いくつかの動物園で飼われていた鳥だけだった。シンシナティ動物園では繁殖が試みられたが、うまくいかなかった。1910年には、最後の一羽となった雌だけが残った。初代大統領ジョージ・ワシントンの妻にちなんでマーサと呼ばれた鳥である。動物園は、同じ種の雄を連れてきた者に賞金を出すと呼びかけたが、誰も現れなかった。晩年のマーサはほとんど動かなくなり、見物人が動くところを見ようと砂を投げつけるので、檻の周りに柵が張られたという。

最後のリョコウバト「マーサ」(1912年)
最後のリョコウバト「マーサ」(1912年)Wikimedia Commons Enno Meyer · Public domain

1914年9月1日の午後、マーサは檻の床で死んでいるのが見つかった。推定で二十九歳前後だった。遺体は大きな氷の塊に封じられ、鉄道でワシントンのスミソニアン協会へ送られて剥製になり、いまも国立自然史博物館に保管されている。ふだんは収蔵庫にあり、死から百年にあたる2014年には、絶滅した北アメリカの鳥たちを紹介する展示の中で、特別に人々の前に姿を見せた。三十億を超える鳥が、およそ半世紀のうちに、一羽も残らず消えたのである。

リョコウバトがいなくなったことは、森の姿にも影響を与えたかもしれない。何十億羽もの鳩は、木の実を大量に食べ、枝を折り、糞で森の土を肥やしていた。その消滅によって、東部の森で育つ木の種類の割合が変わったのではないかという研究や、鳩と木の実を奪い合っていたネズミが増えたことが、ネズミを宿主とする病気の広がりにつながったのではないかという仮説もある。ただし、どれも確かめるのが難しい問いである。

Bird lore (1913) (14562557107)
Wikimedia Commons J. G. Hubbard, Internet Archive Book Images · Public domain

それまで多くの人は、自然の恵みは尽きることがないと考えていた。あまりに多いものが、なくなるはずはない。1857年、オハイオ州議会の委員会は、リョコウバトの保護を求める法案に対して、この鳥は驚くほど数が多く、保護は必要ないと報告している。リョコウバトの運命は、その前提を事実によって打ち砕いた。

アメリカの自然保護の法制は、ここから動き出した。1900年には、違法に捕らえた野生生物を州境を越えて取引することを禁じたレイシー法が成立し、その議論の中でリョコウバトの例が繰り返し引かれた。1918年には、カナダとの条約に基づいて、渡り鳥を捕らえたり売り買いしたりすることを禁じる法律ができた。羽根飾りのための水鳥の乱獲が直接のきっかけだったが、その背景にはリョコウバトの記憶があった。1973年には、絶滅のおそれのある種を守る法律が定められる。バイソンの激減(アメリカバイソンの激減)とともに、リョコウバトの絶滅は、のちのレッドリストのような取り組みの源流の一つになった。

リョコウバトの最古の図版(マーク・カッツビー画、1731年)
リョコウバトの最古の図版(マーク・カッツビー画、1731年)Wikimedia Commons Mark Catesby, George Edwards · Public domain

1947年、ウィスコンシン州の州立公園にリョコウバトの記念碑が建てられた。除幕式に寄せた文章で、生態学者アルド・レオポルドは、ある種がほかの種の死を悼むのは、この世に新しく現れたことだという趣旨のことを書いている。

二十一世紀に入って、博物館の標本から遺伝子を読み取り、近縁の鳩の細胞を編集してリョコウバトをよみがえらせようという計画も動き出した。2017年に発表されたゲノムの解析では、この鳥の遺伝的な多様性が、膨大な個体数のわりに意外なほど低かったことが分かった。実現の見通しは立っていない。仮に一羽を作り出せたとしても、この鳥はもともと、何億羽という群れの中でしか生きられない鳥だった。

同じ時代のできごと

日清戦争1894年東学農民戦争AD1894年条約改正(日英通商航海条約)AD1894年7月16日プルマン・ストライキAD1894年甲午改革AD1894年「国語」と標準語AD1894年第三次ペスト大流行1894年ドレフュス事件AD1894年12月22日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1914年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →