切り裂きジャック事件
概要
1888年秋、ロンドン東部のホワイトチャペル一帯で女性が次々に殺された連続殺人。犯人は捕まらず、名も分かっていない。
場所
51.52°N -0.07°E · イギリス・ロンドン(タワーハムレッツ区)
本文
19世紀後半のロンドン東部、イースト・エンドと呼ばれた一帯は、同じ都の西側とは別の町のようだった。半ばにはアイルランドからの移民が流れ込み、1882年からはロシア帝国のポグロム(ユダヤ人への迫害)を逃れた人々がやって来た。ホワイトチャペル教区の人口は1888年には8万ほどに膨れ、仕事も住まいも足りなかった。イースト・エンドで生まれた子の55パーセントが5歳を迎える前に死んだとされる。チャールズ・ディケンズが小説に描いたロンドンの貧しさは、この頃もまだ終わっていなかった。
警視庁の1888年10月の見積もりでは、ホワイトチャペルには売春宿が62軒、売春で暮らす女性が1200人いた。233軒の簡易宿泊所に毎晩8500人ほどが泊まり、それにも払えない者は綱に寄りかかって眠る席に2ペンスを払った。殺されたのは、こうした宿を転々としながら日々の金を工面していた女性たちだった。
警視庁はこの地区で1888年4月から1891年2月までに起きた11件の殺人を「ホワイトチャペル殺人事件」として一つのファイルにまとめている。そのうち同じ犯人の手によるとみなされることが多いのが、のちに「カノニカル・ファイブ(正典の5人)」と呼ばれる5件である。8月31日の未明、バックス・ロウでメアリー・アン・ニコルズが見つかった。1週間後の9月8日、ハンベリー通り29番地の裏庭でアニー・チャップマン。9月30日の未明には、バーナー通りの奥でエリザベス・ストライドが、その45分ほど後にシティ・オブ・ロンドンのマイター・スクエアでキャサリン・エドウズが見つかり、「二重の事件」と呼ばれた。11月9日の朝、ドーセット通りの奥、ミラーズ・コート13番の自室でメアリー・ジェーン・ケリーが殺されているのが見つかった。
手口は、喉を深く切ったうえで腹部を切り裂くというもので、少なくとも3人からは臓器が持ち去られていた。そのため犯人には解剖や外科の心得があるのではないかと噂された。殺害はいずれも夜、週末かその前後に行われ、ストライドを除けば回を追うごとに損壊がひどくなった。ストライドだけ傷が喉の一筋だったのは、途中で人が来て邪魔をされたからだとも、別の犯人だからだとも言われる。
捜査には警視庁のホワイトチャペル管区に加え、スコットランド・ヤードから警部アバーラインらが送り込まれ、エドウズの件からはシティ警察も加わった。家々を回って聞き込み、証拠を集め、容疑者を一人ずつ調べては外していった。だが警察が詳しいことを明かさなかったので、新聞は確かめようのない話を書き立てた。「レザー・エプロン(革の前掛け)」という男の噂が広まり、地元のユダヤ人の靴職人ジョン・パイザーが逮捕されたが、アリバイが確かめられて放された。エドウズが殺された夜、グールストン通りで血のついた彼女の前掛けの切れ端が見つかり、その上の壁にユダヤ人を責めるとも読める白墨の落書きがあった。警視総監チャールズ・ウォレンは反ユダヤの暴動を恐れ、夜が明ける前に消させた。ウォレンは捜査への批判のなかで11月に職を退いた。
「切り裂きジャック」という名は、9月27日の消印で通信社に届いた「親愛なるボス」で始まる手紙に初めて現れ、新聞に載って一気に広まった。この手紙は、部数を伸ばしたい記者が書いたいたずらだったと広く考えられている。10月には、住民が9月に作った自警委員会の長ジョージ・ラスクのもとに「地獄より」と書かれた手紙が、保存処理された人の腎臓の半分とともに届いた。犯人を名乗る手紙は数百通にのぼり、そのほとんどは偽物か役に立たないものだった。
ケリーの後もファイルには4件の殺人が加えられたが、同じ犯人と結び付けるだけの根拠は無い。1894年、警視庁の刑事部の幹部マクノートンは覚え書きに「犠牲者は5人、5人だけ」と書き、3人の名を疑わしい者として挙げたが、どれも状況からの推測にとどまる。当時はまだ指紋による身元確認も無く、シティ警察の記録の大半は第二次世界大戦のロンドン大空襲で焼けた。近年はDNA鑑定で犯人を特定したという主張が何度か出たが、試料の出どころや方法に強い批判があり、認められていない。画家のウォルター・シッカートや作家のルイス・キャロルまで名が挙がってきたが、どれも裏付けは無い。
事件が今も語られるのは、殺し方の残忍さに加え、安い新聞が競って報じた最初の大きな連続殺人だったからである。名前の無い一人の殺人鬼という像は、報道と手紙によって作られた面が大きい。事件の研究は「リッパー学」と呼ばれるほどになったが、史料の研究と言い伝えと作り話が入り混じり、殺された5人の女性の暮らしに光が当たるようになったのは、ずっと後のことだった。