概要
1863年、ロンドンのパブでフットボール・アソシエーションが結成され、手を使う流儀(後のラグビー)と分かれた。1872年、最初のFAカップ決勝(ワンダラーズ対ロイヤル・エンジニアーズ)と、最初の国際試合(イングランド対スコットランド、0対0)。初めは上流の学校のスポーツだったのが、20年で工場労働者のものになった。土曜の午後が半休になり、鉄道が観客を運んだ。1888年、リーグ発足。
場所
53.38°N -1.47°E · イギリス
本文
中世からイギリスの村には「フットボール」があった。町の一方の端から他方へ、大勢で球を運ぶ。人数も、規則も、境界もない。祝日に行われ、しばしば怪我人と、家屋の損壊が出た。国王が何度も禁令を出した(弓の訓練の妨げになる、という理由もあった)。
19世紀、パブリック・スクール(イートン、ハロー、ラグビー、ウィンチェスター)が、それぞれ独自の規則で行うようになった。校庭の広さと、床の材質で、規則が違った。手を使ってよい学校と、いけない学校。壁を使う学校(イートンのウォール・ゲーム)。
問題。卒業生が大学(オックスフォード、ケンブリッジ)で集まると、規則が合わない。1848年、ケンブリッジで、各校の代表が集まって共通の規則を作った(「ケンブリッジ・ルール」)。
1863年10月26日、ロンドンのフリート街のパブ「フリーメイソンズ・タヴァーン」。11のクラブと学校の代表が集まった。6回の会合。
争点は二つ。ボールを手で持って走ってよいか(ランニング)。相手の脛を蹴ってよいか(ハッキング)。
12月8日、ブラックヒース(ハッキングを認める側)が脱退した。「ハッキングを禁じれば、フットボールから全ての勇気と勇敢さが失われ、1週間の練習でフランス人に負けるようになる」と代表が言った、と議事録にある。
残った側が、フットボール・アソシエーション(FA)になった。手を使わない。「アソシエーション・フットボール」。略して「アソック」、そして「サッカー」(オックスフォード風の -er を付ける言葉遊び。ラグビーは「ラガー」)。
脱退した側は、1871年、ラグビー・フットボール・ユニオンを作った。
1871年、FA書記チャールズ・アルコックが、勝ち抜きの大会を提案した。彼が学んだハロー校の校内のトーナメントが元。「チャレンジ・カップ」。
1872年3月16日、ケニントン・オーヴァル。最初のFAカップ決勝。ワンダラーズ 1—0 ロイヤル・エンジニアーズ。観客2000人。参加は15クラブ。全部、上流と中流のアマチュア。
同じ年、1872年11月30日、グラスゴー。最初の国際試合。スコットランド 0—0 イングランド。観客4000人。
変化。1870年代後半から、北部と中部の工場町にクラブができた。多くは、教会(アストン・ヴィラ、エヴァートン、マンチェスター・シティ)、工場(アーセナル=兵器廠、マンチェスター・ユナイテッド=鉄道の車両工場、ウェスト・ハム=造船所)、鉄道会社から生まれた。
1867年、シェフィールドFC(1857年創立、世界最古のクラブとされる)が中心になって、地域の大会が始まっていた。
プロ化。1880年代、北部のクラブがスコットランドから選手を引き抜き、金を払い始めた。FAは「アマチュアリズムに反する」として禁じ、クラブが反発して脱退を示唆し、1885年、FAがプロを公認した。
1883年、ブラックバーン・オリンピック(労働者のクラブ。綿工場の織工、鋳掛屋、歯科助手)が、FAカップでオールド・イートニアンズ(イートン校の卒業生)を破った。これが、競技の担い手が変わった年とされる。
1888年、フットボール・リーグ(12クラブ。全部、北部と中部)。総当たり戦。
観客。土曜の午後。1850年の工場法と、1870年代の慣行で、土曜の午後が半休になった。鉄道が、遠方の試合へ客を運んだ。1901年のFAカップ決勝(クリスタル・パレス)に11万人。
輸出。イギリスの技師、船員、商人、教師が、各地でクラブを作った。ジェノヴァ、ミラン(イギリス人が作ったので、いまも Milano でなく Milan)、アスレティック・ビルバオ、リーベル・プレート、そして横浜と神戸。
1904年、FIFA(フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイスの7か国で設立。イギリスは加わらなかった)。1930年、第1回ワールドカップ(ウルグアイ)。