サッカー戦争
概要
1969年、エルサルバドルとホンジュラスが戦った短い戦争。移民と土地の問題で緊張が高まるなか、W杯予選の騒ぎと重なって起きた。
場所
14.43°N -89.18°E · ホンジュラス・オコテペケ県とエルサルバドルの国境
本文
サッカー戦争は、1969年7月に中米のエルサルバドルとホンジュラスのあいだで起きた短い戦争である。ワールドカップの予選の試合をめぐる騒ぎと重なって起きたため、この名で呼ばれる。戦いは4日ほどで止まり「100時間戦争」とも言われるが、多くの民間人が犠牲になり、10年後のエルサルバドル内戦の遠い原因にもなった。
名前とは違い、原因はサッカーよりずっと深いところにあった。エルサルバドルは国土が狭く人口が多い。土地は一握りの大地主に集中し、土地を持たない農民があふれていた。仕事を求めて多くの人が隣のホンジュラスへ移り住み、1969年にはホンジュラスに住むエルサルバドル人は30万人を超え、ホンジュラスの人口の1割以上を占めていた。そのホンジュラスもまた、土地の多くを大地主やアメリカの果物会社が持つ国だった(ユナイテッド・フルーツと「バナナ共和国」)。
ホンジュラスでは1962年に農地改革の法律ができ、1967年から本格的に実施された。政府は、エルサルバドルからの移民が住みついていた土地を取り上げて、ホンジュラス生まれの人々に分け与えた。何年も前から住み、ホンジュラス人と結婚していた人も含めて、数千人のエルサルバドル人が追い出された。両国の関係は張りつめていった。
そこへ、1970年のワールドカップ・メキシコ大会の予選が重なった。1969年6月8日、ホンジュラスの首都テグシガルパでの第1戦では、前夜にホンジュラスのファンがエルサルバドル代表の宿舎に石や爆竹を投げ込み、ホンジュラスが1対0で勝った。6月15日、エルサルバドルの首都サンサルバドルでの第2戦では、仕返しにホンジュラス代表の宿舎の外で暴動が起き、試合はエルサルバドルが3対0で勝った。負けたホンジュラスでは各地でエルサルバドル人を襲う暴動が起き、多くの人が国を追われた。6月26日、メキシコ市での決定戦の前夜、エルサルバドルはホンジュラスとの国交を断った。決定戦は延長の末、エルサルバドルが3対2で勝った。
国境では小競り合いが続き、7月14日の夕方、エルサルバドル空軍がホンジュラスの飛行場を爆撃して戦争が始まった。第二次世界大戦のころの古いプロペラ機に加え、民間機を急ごしらえの爆撃機に変えての攻撃だった。地上ではエルサルバドル軍が2方面からホンジュラスに攻め込み、16日には国境の町ヌエバ・オコテペケを占領した。ホンジュラス空軍も反撃し、エルサルバドルの石油施設を爆撃して燃料の2割を失わせた。17日には両国のプロペラ戦闘機が空中戦を交えたが、これはプロペラ機どうしの空中戦としては歴史上最後のものとされる。
米州機構(OAS)が仲介に入り、7月18日の夜に停戦がまとまった。エルサルバドル軍は撤退をしぶったが、制裁の圧力を受けて8月2日に引き揚げた。死者の数ははっきりしない。公式の数字ではエルサルバドル側107人、ホンジュラス側99人とされるが、ホンジュラス側の死者ははるかに多かったという見方があり、犠牲者の多くは民間人だった。戦争のさなかの7月20日にはアポロ11号の月面着陸が月に降り、世界の目はそちらに向いていた。
戦争の影響は長く残った。ホンジュラスから戻った、あるいは追われた6万から13万のエルサルバドル人は、もともと土地も仕事も足りない祖国で、さらに苦しい暮らしを強いられた。その不満は、1980年に始まり7万人以上が死んだエルサルバドル内戦の原因の一つになった。両国の貿易は途絶え、中米共同市場も弱まった。両国が平和条約を結んだのは1980年で、国境の争いは1992年に国際司法裁判所の判決が出るまで持ち越された。戦争のあと本大会に進んだエルサルバドル代表は、3戦全敗で大会を去った。