人物

水野勝成

Mizuno Katsunari
AD1564年9月20日 – AD1651年5月4日(享年86)
江戸幕府重要度 2

概要

父に勘当されて諸国を放浪したのち、大坂の陣で活躍し、備後福山藩の初代藩主となった武将。

本文

水野勝成は、戦国の終わりから江戸時代の初めを生きた武将である。父に勘当されて十年以上も諸国をさまよい、仕えては逃げることを繰り返したのち、大名に返り咲いた。最後は備後福山藩の初代藩主として城と町をつくり、88歳まで生きた。

勝成は1564年、三河の水野忠重の子として生まれた。水野家は徳川家康の母・於大の方の実家で、勝成は家康の従兄弟にあたる。1581年の遠江の高天神城の戦いで首を取り、織田信長から感状を受けた。翌年の本能寺の変のときは父とともに京都にいて、寺に匿われて逃げ延びている。

その後は家康のもとで戦った。1584年の小牧・長久手の戦いでは、目を患って兜をかぶらずにいたところを父に叱られ、言い返して敵陣に駆け込み、一番首を取ったと伝えられる。この戦いでは、敵方の森長可が水野家の家臣の足軽に撃たれて死んだとされる。ところが同じ年、勝成は自分の素行を父に告げ口した家臣を斬ってしまう。怒った忠重は勝成を勘当し、ほかの家に仕えることも禁じた(奉公構)。

ここから長い放浪が始まる。京都では無頼の者と交わって喧嘩を重ねたという。のちに織田信雄の口添えで豊臣秀吉の陣営に入り、四国攻めに加わったが、与えられた知行を捨てて逃げた。肥後の佐々成政、豊前の黒田官兵衛、肥後の小西行長、加藤清正、立花宗茂と、九州の大名を次々に渡り歩き、そのたびに戦で手柄を立てては去った。黒田家にいたときには、のちに大坂の陣で敵として戦う後藤又兵衛と殿(しんがり)を争ったという。最後は備中成羽の三村親成のもとで食客となり、そこで子をもうけた。この時期の足取りには伝説が多く、確かなことは少ない。

1598年に秀吉が死ぬと、勝成は翌年上洛して家康のもとへ戻り、15年ぶりに父と和解した。1600年、その父が西軍の誘いを断って殺されると、勝成は三河刈谷3万石を継いだ。以後は家康の側近として仕えた。関ヶ原の戦いでは本戦に出ることを許されず、大垣城の抑えに回って城を攻め、降伏させている。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

刈谷に戻った勝成は、城を近世の城に改めた。1601年には従五位下に叙され、日向守を名乗った。日向守は本能寺の変を起こした明智光秀の官途で、それ以来名乗る者がいなかったが、勝成は気にせず、むしろ自ら望んだと伝えられる。その勇猛さから、のちに「鬼日向」と呼ばれた。

1615年の大坂の陣の夏の陣で、勝成は大和方面の先鋒の大将を命じられた。家康は、大将なのだから昔のように自ら先頭に立ってはならないと念を押したという。だが道明寺の戦いで、勝成は自ら槍を取って後藤又兵衛の隊を破った。翌日の天王寺の戦いでも、真田信繁の隊を攻め、明石全登の隊を退けている。戦功は第二とされたが、与えられたのは大和郡山6万石だった。命令に背いて先頭に立ったためとも言われる。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

1619年、福島正則が改易されると、勝成は備後福山10万石を与えられた。外様大名ばかりだった中国地方に置かれた最初の譜代大名で、西国を見張る役目を負った。勝成は芦田川の河口に近い丘に新しく城を築き、1622年に福山城が完成した。上水道を引き、新田を開き、藩札を出し、畳表の「備後表」などの産業を育てた。若いころに諸国で知り合った人々を家臣に取り立て、かつての恩人の三村親成も家老に迎えている。家臣を見張る役を置かず、誓紙も取らなかったが、家中に問題は起きなかったといい、隣国の岡山藩主・池田光政は勝成を良将の中の良将と評したと伝えられる。水野家が治めた時代の福山では、一揆が一度も起きなかった。

1638年、75歳の勝成は島原の乱の鎮圧に加わった。九州の大名以外では唯一の参陣だった。翌年家督を譲ったのちも藩政に関わり、1650年には87歳で鉄砲を撃って的に当て、人々を驚かせたという。1651年、福山城で死んだ。

島原の乱に関わる図版:Shimabara-Battle-Map-c17th-century
島原の乱Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

勝成は宮本武蔵とも縁があった。大坂の陣で武蔵は水野家の客将として出陣したと伝えられ、武蔵の養子の一人は水野家の家臣の子だった。暴れ者の若者が名君と呼ばれる藩主になった生涯は、いまも福山の町の礎として語られている。

動画(1)

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