人物

森長可

Mori Nagayoshi
1558年 – AD1584年5月18日(享年26・推定)
織田政権重要度 2

概要

織田信長に仕えた美濃金山城主。「鬼武蔵」と呼ばれた猛将で、森蘭丸の兄。小牧・長久手の戦いで戦死した。

本文

森長可は、織田信長に仕えた美濃の武将である。荒々しい戦いぶりから「鬼武蔵」と呼ばれた。信長の小姓として知られる森成利(蘭丸)の兄にあたる。信長の死後は豊臣秀吉の側に付き、27歳で戦場に倒れた。

長可は1558年、信長の重臣・森可成の次男として生まれた。1570年、父の可成は近江の宇佐山城で浅井・朝倉の軍と戦って死に、長兄の可隆もその年に戦死していた。長可はわずか13歳で家督を継ぎ、美濃の金山城(いまの岐阜県可児市兼山)の主となった。

初陣は1573年の伊勢長島の一向一揆攻めで、翌年の長島攻めでは船で川を渡って一揆勢に切り込んだと記録にある。以後は信長の嫡男・織田信忠の配下として、長篠の戦い、石山合戦などに加わった。戦場ではたびたび命令に背き、信長から書状で注意を受けているが、重い処分を受けたことは一度もない。信長に目をかけられていたことがうかがえる。

長篠の戦いに関わる図版:Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575
長篠の戦いWikimedia Commons Unknown author (Edo period, circa 18th century) · Public domain

戦うばかりの人ではなかった。金山では木曽川の河港を整え、城下町の区画を整理し、市を開いた。内陸では手に入りにくい塩と海の魚の商いを地元の商人に独占させ、その代わりに税を取った。この仕組みは森家が美濃を去った後も商人たちに守られ、明治まで続いたという。書をよくし、茶の湯も好み、名物の茶壺を手に入れるために秀吉から金を借りたことまであった。

1582年の甲州攻めで、長可は先鋒を任された。武田勝頼の弟・仁科盛信の守る信濃の高遠城では、屋根に登って板を剥がし、城内へ鉄砲を撃ち込んだ。武田氏が滅ぶと、信長は長可に信濃の川中島四郡を与えた。長可は一揆を素早く鎮め、越後の上杉景勝の領国へ攻め込んで春日山城に迫った。

その最中に本能寺の変が起きる。信長とともに、弟の蘭丸・坊丸・力丸も本能寺で死んだ。敵地の奥深くにいた長可は、たちまち孤立した。配下の信濃の国衆はほとんどが離反し、一揆を起こして退路を塞いだ。長可は人質を連れて南へ退き、木曽谷では木曾義昌の暗殺の企てを知ると、予告より一日早く夜中に城へ押し入り、義昌の子を人質に取って通り抜けた。美濃に帰り着いたのは6月24日だった。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

金山に戻った長可は、周りの国人たちと戦い、1年ほどで東美濃をまとめ上げた。1584年、秀吉と織田信雄・徳川家康が争った小牧・長久手の戦いでは、妻の父の池田恒興とともに秀吉方に付いた。3月の羽黒の戦いでは、徳川の酒井忠次らに奇襲されて敗れている。

4月、秀吉方は家康の本拠の三河を突く別働隊を出し、長可はその第二陣を率いた。鎧の上に白装束を羽織り、生きて帰らない覚悟を示して出陣したという。途中、尾張の岩崎城を攻めて落とした。出陣に先立って、長可は遺言状を書いている。名物の茶道具は秀吉に差し上げること、弟の仙千代には跡を継がせず秀吉のそばで奉公させること、そして娘は武士ではなく京都の町人、医者のような人に嫁がせてほしいことが書かれていた。この遺言状はいまも残り、死を覚悟した若い武将の心のうちを伝えている。

1584年5月18日(天正12年4月9日)、尾張の長久手で別働隊は家康の本隊に捕捉された。長可は井伊直政の隊と激しく戦ったが、眉間を鉄砲で撃ち抜かれて即死した。撃ったのは水野勝成の家臣の配下の足軽だったと伝えられる。首は森家の小姓が持ち帰り、徳川方には渡らなかったという。戦死の地とされる長久手市には「武蔵塚」が残る。

秀吉は遺言のうち、弟に跡を継がせるなという一節だけは聞き入れず、仙千代(のちの森忠政)に家を継がせた。忠政はのちに美作津山藩の初代藩主となる。関所の番人を斬って通ったという「武蔵守」の由来の話など、長可の荒々しさを伝える逸話は多いが、その多くは後世の軍記物によるものである。

動画(1)

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