後藤又兵衛
概要
黒田孝高・長政に仕えた猛将。黒田家を出奔して浪人となり、大坂の陣で豊臣方に加わって道明寺の戦いで戦死した。
本文
後藤又兵衛は、安土桃山時代から江戸時代の初めの武将である。諱は基次として知られるが、本人が出した文書には正親と署名している。黒田官兵衛とその子の黒田長政に仕えて数々の手柄を立てたのち、黒田家を去り、最後は大坂の陣で豊臣方として戦って死んだ。

生まれは播磨で、『大日本史』などは1560年に別所氏の家臣・後藤基国の次男として生まれたとする。生年には異説もある。1578年、黒田孝高(官兵衛)が荒木村重に有岡城に捕らえられたとき、又兵衛の伯父が黒田家臣の誓紙への署名を拒んだため、一族は黒田家を追われ、又兵衛は仙石秀久に仕えたとされる。
記録に又兵衛の働きがはっきり現れるのは、1586年の九州攻めのころからである。仙石秀久が戸次川の戦いで大敗したのち、又兵衛は黒田家に戻り、重臣・栗山利安の与力として100石で仕えた。豊前の城井氏との戦いでは長政に退却を勧めたが聞き入れられず、黒田軍は敗れた。1587年の長岩城攻めでは、瀕死の重傷を負っている。
文禄・慶長の役にも加わり、第二次晋州城の戦いでは、亀の甲羅のような覆いを付けた車を作って城壁を崩し、加藤清正の家臣と一番乗りを争ったという。1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成の家臣で槍の名手の大橋掃部を一騎打ちで討ち取った。戦後、筑前に移った黒田家で、又兵衛は大隈城(益富城)の主となり、1万6000石を与えられたとされる。

ところが1606年、孝高の死から2年後に、又兵衛は一族を連れて黒田家を出奔した。長政と仲の悪かった細川忠興ら他家の者と、頻繁に書状を交わしていたことが原因とされる。長政との不仲を語る逸話は多い。負け戦のあと長政や重臣たちが頭を丸めて孝高に詫びたとき、又兵衛だけは、負けるたびに髷を落としていたら一生髪がそろわないと言って従わなかった、という話もその一つである。ただし、これらは後世の書物に見えるもので、どこまで事実かは分からない。
長政は又兵衛に「奉公構」をかけた。ほかの大名が召し抱えることを禁じる処置である。福島正則や前田利長、結城秀康らが又兵衛を迎えようとしたが、どれも実現しなかった。いったん池田家に身を寄せたものの、それもかなわず、1611年ごろからは京都で浪人として暮らした。
1614年、大坂の陣が始まると、又兵衛は大野治長の誘いを受け、早くに大坂城へ入った。真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登とともに、のちに「大坂城五人衆」と呼ばれる浪人の将の一人である。冬の陣では木村重成とともに鴫野・今福の守りに就き、上杉・佐竹の軍と戦った。大坂城に入ったころ、天満で兵の閲兵を指揮した采配の見事さから、摩利支天の再来と称されたという。浪人の将の中で、家康が名を挙げて警戒したのは又兵衛らわずかだったとも伝えられる。
1615年の夏の陣で、大坂方は大和から来る徳川方を、平野が狭まる国分のあたりで迎え撃つ策を立てた。又兵衛は2800の兵を率いて先鋒となり、6月2日(慶長20年5月6日)の未明に出陣した。ところが徳川方の水野勝成の隊はすでに国分まで進んでおり、又兵衛はその手前の小松山に陣を敷いた。かつて九州で殿を争った勝成が、今度は正面の敵だった。
後に続くはずの薄田兼相や真田信繁らの隊は、霧のために到着が遅れた。又兵衛は孤立したまま、伊達政宗の家臣・片倉重長の鉄砲隊を含む、十倍を超える徳川方を相手に戦った。山を下りて突撃し、乱戦の中で討ち死にしたとされる(道明寺の戦い)。享年56。遺体を巡っては、家臣が首を隠したとする話などが伝わる。
又兵衛は江戸時代の講談や軍記物で豪傑として描かれ、「黒田二十四騎」の一人にも数えられた。大坂の陣を生き延びたという伝説も各地に残り、奈良県宇陀市などに墓と伝えられるものがある。主君と争って家を出た武将が、最後に死に場所を求めて大坂に向かった姿は、多くの人の心をとらえてきた。