マヌエル1世
概要
「幸運王」と呼ばれたポルトガル王。王位からは遠い生まれだったが、ガマのインド航路やカブラルのブラジル到達の時代に君臨し、海の帝国の富を築いた。
本文
マヌエル1世は1469年5月31日、リスボン近郊のアルコシェテに、ヴィゼウ公フェルナンドの九番目の子として生まれた。父は国王アフォンソ5世の弟である。王家の一員とはいえ、王位からは遠い立場だった。のちに「幸運王(オ・ヴェントゥローゾ)」と呼ばれるのは、この遠い位置から、思いがけない死が重なって王冠が転がり込んだためである。
若いころのマヌエルの周りは血なまぐさかった。いとこの国王ジョアン2世は大貴族の力を抑えようとし、1483年にはブラガンサ公を反逆の罪で処刑した。翌1484年には、マヌエルの兄のヴィゼウ公ディオゴが陰謀の首謀者とされ、王自身の手で刺し殺された。ところが1491年、ジョアン2世のただ一人の嫡子アフォンソ王子が落馬で死ぬ。王は庶子を後継ぎに立てようとしたが認められず、1495年に王が死ぬと、マヌエルが26歳で即位した。
マヌエルは、ジョアン2世とエンリケ航海王子以来の海の事業を引き継いだ。1497年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団をインドへ送り出し、翌年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路によってヨーロッパからアフリカ南端を回ってインドへ至る航路が開かれた。1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団がインドへ向かう途中で南米の大地に行き当たった(カブラルのブラジル到達)。トルデシリャス条約の線のポルトガル側にあったこの土地が、のちのブラジルになる。

その後もインド洋への進出は続いた。アフォンソ・デ・アルブケルケは1510年にゴアを占領し、1511年にはマラッカの陥落で東南アジアの交易の要を押さえ、1515年にはペルシア湾の入口のホルムズを握った。香辛料の交易を王室が独占し、リスボンのインド庁がその富を管理した。マヌエルはヨーロッパでいちばん豊かな王と言われるようになる。1515年にはインドから届いたサイを教皇レオ10世に贈ろうとし、船は難破したが、その姿を伝え聞いて描いたデューラーの版画が名高い。
富は建物になった。マヌエルの時代には、ロープや貝殻、天球儀など海の意匠をふんだんにあしらった独特の建築が生まれ、のちに王の名をとって「マヌエル様式」と呼ばれる。リスボンのベレン地区のジェロニモス修道院とベレンの塔はその代表で、ガマの航海を記念する意味も込められていた。法令を集め直したマヌエル法典もこの時代の仕事である。
一方で、宗教の面では暗い決定も下した。即位の当初はユダヤ人への締め付けを緩めたが、1496年、スペインのイサベル1世とフェルナンド2世の娘イサベルとの結婚を望むなかで、その両親の求めに応じ、洗礼を拒むユダヤ人に国外退去を命じた。そして期限の前に、王令で強制的に改宗させた。1506年にはリスボンで新キリスト教徒(改宗したユダヤ人)への虐殺が起き、王は首謀者を処刑している。
結婚も、王家の運命を大きく揺らした。最初の妃イサベルは1498年に出産で死に、残された王子ミゲルは、生きていればポルトガルとカスティーリャ、アラゴンを一人で継ぐはずだったが、1500年に幼くして死んだ。マヌエルはその後、イサベルの妹マリアと、さらに晩年にはカール5世の姉レオノールと結婚した。航海者マゼランがマヌエルに計画を退けられてスペインに仕えたのも、この王の時代である。
マヌエル1世は1521年12月13日、リスボンで52歳で死んだ。疫病によるとされる。王位は息子のジョアン3世が継いだ。王位から遠い生まれでありながら、ポルトガルが最も輝いた時代の王となったその生涯は、まさに幸運と呼ぶにふさわしい。ただしその富の多くは、ガマやアルブケルケのような航海者と兵士たちが、海の向こうで力ずくで勝ち取ったものだった。