桐野利秋
概要
薩摩藩士・陸軍少将。初め中村半次郎と名乗った。西郷隆盛に従い、西南戦争で薩軍を率いて城山で戦死した。
所属
薩摩藩本文
桐野利秋は天保9年12月2日(西暦では1839年1月16日)、鹿児島城下に近い吉野村に、城下士の中村与右衛門の子として生まれた。初めは中村半次郎と名乗った。10歳ごろ、父が罪を得て徳之島に流され、わずか5石の家禄も取り上げられた。兄が病で死んでからは、小作や畑の開墾で家を支えた。剣術は小示現流とも薬丸自顕流とも言われるが、ほとんど独りで鍛えて腕を上げたという。自分では文盲だと言っていたが、読み書きは母方の祖父に習っており、慶応3年の京での日々を書いた日記が残っている。
文久2年(1862年)、島津久光に従って京に上り、朝彦親王の御所の守衛となった。やがて諸藩の志士と広く付き合って討幕を説くようになり、家老の小松帯刀や西郷隆盛に目を掛けられた。池田屋事件の直後に西郷が書いた手紙には、半次郎が過激な浪士の中に入り込み、長州藩邸にも出入りしているので長州の事情がよく分かった、とある。本人は長州へ乗り込みたいと言い、脱藩した形にして送り出したが、藩境で止められて入れなかった。
慶応3年(1867年)9月3日、半次郎は薩摩藩に兵学を教えていた軍学者の赤松小三郎を、幕府の密偵と疑って白昼に斬った。確かな史料で彼が人を暗殺したと分かっているのはこの一件である。「人斬り半次郎」という呼び名は、のちに池波正太郎の小説『人斬り半次郎』などで広く知られるようになったものだ。同じ年の11月に坂本龍馬が殺されると(坂本龍馬暗殺(近江屋事件))、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡に走り回り、葬儀の後には龍馬の甥らと墓に参っている。
鳥羽・伏見の戦いでは伏見で戦い、東へ向かう西郷の軍で小隊長に抜てきされた。江戸では西郷と勝海舟の会談(江戸無血開城)に同席したといわれ、上野の彰義隊との戦いにも加わった。その後、刺客に襲われて一人を斬り退けたが、左手の指を2本失った。会津戦争では軍監として兵を率い、9月22日の開城では官軍を代表して城を受け取った。イギリスの通訳アーネスト・サトウは、城を受け取りに行った中村半次郎が男泣きに泣いたと聞いたことを書き残している。作法をどこで覚えたのかと聞かれ、寄席の講談で聞き覚えたと答えたという逸話もある。

明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷が兵を率いて上京すると、彼も大隊を率いて従い、御親兵に加わった。同じ年に陸軍少将となり、北海道を視察して札幌に鎮台を置く必要を上申した。これがのちの屯田兵の始まりになったとされる。翌年には熊本の鎮西鎮台の司令長官となった。金無垢の懐中時計を持ち、フランス仕立ての軍服を着て香水をつけた洒落者として知られた。明治6年(1873年)、征韓論政変で西郷が政府を去ると、辞表を出して鹿児島へ帰った。故郷では原野を開墾し、私学校と並んで作られた吉野開墾社を率いて自ら鍬をふるった。
明治10年(1877年)2月、私学校の生徒が政府の火薬庫を襲い、西郷暗殺の計画が噂されると、私学校で開かれた大評議は桐野が主導して挙兵と決まった。彼は四番大隊の指揮長となり、全軍の総司令を兼ねた。こうして西南戦争が始まった。薩軍は熊本城を囲んだが落とせず、3月の田原坂の戦いで敗れ、4月には囲みを解いて退いた。宮崎では桐野の命で軍票(西郷札)が刷られた。8月、延岡近くで追い詰められた薩軍は可愛岳を越えて包囲を破り、山中を10日あまり歩いて鹿児島へ戻り、城山にこもった。
9月24日、政府軍が城山を総攻撃した。西郷が弾に当たって自決すると、桐野はそれを見届けてから岩崎口の塁にこもって戦い、額を撃ち抜かれて死んだ。満38歳だった。遺体からは香水の香りがしたとも伝えられる。挙兵の直後に官位を奪われ、賊軍の将として扱われたが、大正5年(1916年)に正五位を贈られて名誉を回復した。
西郷は彼について「学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と言ったと伝えられ、勝海舟も桐野や村田新八をなかなかの俊才だったと語っている。剣の腕と荒々しさばかりが語られがちだが、同時代の人々は、身分の上下を問わず誰とでも隔てなく付き合い、金に恬淡として、手の付けられない荒くれ者をまとめるのがうまかった人物として記憶していた。