人物

本多忠勝

Honda Tadakatsu
1548年 – AD1610年12月3日(享年62・推定)
江戸幕府重要度 3

概要

徳川家康の家臣で徳川四天王の一人。槍「蜻蛉切」を手に生涯の戦で傷を負わなかったと伝えられ、桑名藩の初代藩主となった。

本文

本多忠勝は、徳川家康に少年のころから仕えた武将である。通称は平八郎。酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王に数えられ、戦場での強さは敵からも称えられた。生涯に大小57の合戦に出て、かすり傷一つ負わなかったと伝えられる。

天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前(いまの愛知県岡崎市)に、松平家の譜代の家臣本多忠高の長男として生まれた。翌年、父は安城の合戦で討ち死にし、忠勝は叔父の忠真に育てられた。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前哨戦である大高城への兵糧入れで初陣したとされる。13歳だった。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、本多一族の多くが一揆の側についたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗して家康の側に残った。19歳で旗本の先手役に抜擢され、与力54騎をつけられている。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、家康の本陣に迫る朝倉軍に向かって単騎で駆けこんだと伝えられる。元亀3年(1572年)、武田信玄の大軍が遠江に入ると、忠勝は偵察に出て武田の本隊と出くわし、一言坂で殿(しんがり)を務めて家康の本隊を逃がした。このとき武田方から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という落書が出たという。唐の頭は、当時徳川家中で兜に飾ったヤクの毛のことである。続く三方ヶ原の戦い、長篠の戦いにも加わった。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康はわずかな供だけで堺にいた。取り乱して京へ向かおうとする家康を忠勝がいさめ、伊賀の山中を抜けて三河へ帰る「伊賀越え」を選ばせたと伝えられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、留守を預かっていた忠勝が500ほどの兵で駆けつけ、羽柴軍の大軍の前に立ちはだかって進軍をためらわせたという。豊臣秀吉は忠勝を東国一の勇士と称え、のちに「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並べて褒めたと伝えられる。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

愛用の槍は「蜻蛉切」である。穂先に止まったトンボが真っ二つになったという話からその名がついた。刃の長さ43.8センチの笹穂型の大身槍で、茎には「藤原正真作」と銘がある。日本号・御手杵とともに天下三名槍に数えられる。柄は二丈(約6メートル)あまりもあったと伝えられ、晩年に力の衰えを感じて三尺ほど詰めたという。鹿の角を模した脇立ての兜と黒糸威の具足も忠勝の姿として知られ、討った敵を弔うために肩から大きな数珠を下げていたとも伝えられる。

天正18年(1590年)、家康が関東へ移ると、忠勝は上総大多喜に10万石を与えられた。家臣の中では井伊直政の12万石に次ぐ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、井伊直政と連名で諸大名に書状を送り、東軍に引き入れる工作にもあたった。本戦でも少ない手勢で奮戦した。戦後の慶長6年(1601年)、伊勢桑名10万石に移り、城の修築と城下の町割り、東海道の宿場の整備を進めた。桑名藩の基礎はこのとき作られた。娘の小松姫は真田信之に嫁いでおり、関ヶ原のあと忠勝は信之とともに、西軍についた真田昌幸・信繁父子の助命を家康に願い出た。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

天下が治まると、将軍徳川秀忠のまわりでは本多正純のような政務に通じた者が重んじられるようになり、忠勝は幕府の中枢から遠ざかった。眼病をわずらい、慶長14年(1609年)に家督を嫡男の忠政に譲って隠居した。慶長15年10月18日(1610年12月3日)、桑名で死去した。63歳。重臣二人が殉死している。死の数日前、小刀で持ち物に名を彫っていて手もとが狂って左手に傷を負った忠勝が「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」とつぶやいた、という話が残るが、これも後世の逸話である。

忠勝の家は子孫が姫路、岡崎などの藩主を務めて続いた。戦場での勇猛さと、旧主への一途な忠義とが重ねて語られ、いまも戦国最強の武将を挙げるときにまず名の出る一人である。蜻蛉切は静岡県沼津市の個人が所蔵しており、岡崎市の三河武士のやかた家康館などで写しを見ることができる。

動画(2)

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