在ペルー日本大使公邸占拠事件
概要
ペルーの左翼ゲリラがリマの日本大使公邸を占拠し、127日間人質を取った事件。軍の特殊部隊がトンネルから突入して終わった。
場所
-12.06°N -77.04°E · ペルー・リマ
関わった人(1)
フィデル・カストロAD1926年8月13日–AD2016年11月25日 · ゲリラの亡命を条件付きで受け入れると示した本文
1990年代のペルーでは、左翼ゲリラの武装闘争が続いていた。日系人のアルベルト・フジモリ大統領は強硬な鎮圧と経済の自由化を進め、ゲリラ組織の幹部を多く捕らえていた。そのひとつがトゥパク・アマル革命運動(MRTA)で、名は18世紀に植民地支配に反乱を起こしたトゥパク・アマル2世から取っている。
1996年12月17日の夜、首都リマの日本大使公邸では、青木盛久大使が主催する天皇誕生日の祝賀会が開かれていた。午後8時過ぎ、隣の空き家の塀が爆破され、ネストル・セルパが率いるMRTAのメンバー14人が会場に押し入った。大使館員、ペルーの閣僚や軍人、各国の大使、日本企業の駐在員ら600人を超える人々が人質になった。MRTAは、収監中の仲間全員の釈放、経済政策の見直しなどを要求し、敷地に地雷を仕掛けて立てこもった。

人質が多すぎたため、MRTAは赤十字国際委員会の仲介に応じ、女性や高齢者などを早い段階で次々に解放した。年が明けるころには約100人、最後まで残ったのは日本人24人を含む72人で、すべて男性だった。日本政府は平和的な解決を求め、橋本龍太郎首相とフジモリ大統領は2月にカナダのトロントで会談した。2月からはペルー政府とMRTAの直接の話し合いが始まり、カトリックのシプリアーニ大司教らが仲介した。フジモリはキューバを訪れ、フィデル・カストロ首相からゲリラを条件付きで受け入れる約束を取り付けたが、MRTAの側がこの亡命案を拒んだ。
日本では事件の報道が連日テレビと新聞を埋めた。多くの取材陣がリマに詰めかけ、1月にはテレビ朝日系列の取材班が警戒線を越えて公邸に入ろうとし、人質と報道陣の安全を無視したとして国内外から強く非難され、のちに社長が謝罪した。公邸の中では、人質たちが日本語とスペイン語を教え合い、トランプや麻雀で時間をつぶした。リマの日本料理店からは毎日食事が差し入れられ、ゲリラもそれを口にしたという証言がある。
そのあいだに、政府は武力で解決する準備を進めていた。公邸と同じ間取りの建物を別の場所に建てて特殊部隊に突入の訓練をさせ、隣の家から公邸の地下へ向けて何本ものトンネルを掘った。掘る音を隠すため、周囲では大きな音で行進曲を流し続けたという。公邸の中には、差し入れの品に仕込んだ盗聴器や小型の無線機が持ち込まれていた。無線機を受け取った人質の一人が、ペルー海軍のルイス・ジャンピエトリ提督で、彼は中の様子を外へ伝え続けた。
1997年4月22日の午後、MRTAのメンバーのほとんどが1階の広間で日課の室内サッカーをしていることが、中からの連絡で分かった。午後3時23分、トンネルの真上の床が爆破され、陸海軍の特殊部隊が床の穴と正門から一斉に突入した。作戦名は、地下通路で知られるアンデスの古代遺跡にちなんで「チャビン・デ・ワンタル」とされた。人質72人のうち71人が救出され、人質の最高裁判事1人と隊員2人が死亡した。MRTAの14人は全員が死んだ。突入の様子は世界中にテレビで生中継された。
突入の決断は当初、各国から称賛された。しかしその後、投降したゲリラが処刑されたのではないかという疑惑が持ち上がり、ペルーで捜査と裁判が長く続いた。MRTAは主要メンバーを失って事実上崩壊した。人質事件ではふつう人質が犯人に心を寄せるとされるが(ストックホルム症候群の人質事件から名付けられたストックホルム症候群)、この事件では若いゲリラたちが人質に情を移して危害を加えられなかったとして、逆の現象を指す「リマ症候群」という言葉が生まれた。
公邸は事件のあと取り壊され、大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に、二重の塀と監視塔を備えて移された。突入の訓練に使われた実物大の公邸の模型は残され、事件の資料を見せる博物館になっている。