ゾミアの山地民
概要
東南アジアの山地に住む人びとは、国家に追いつかれなかったのではなく、国家から逃げてそこにいる。焼畑も、文字を持たないことも、逃げるための技術だった、という見方になる。
場所
22.00°N 99.00°E · ミャンマー・タイ・ラオス・ベトナム・中国雲南にまたがる高地
本文
東南アジアの大陸部から中国の南西部にかけて、標高およそ300メートルより上の広い山地が続いている。ベトナムの中部高原から、ラオス、タイの北部、ミャンマーの山地、中国の雲南や貴州、そしてインドの北東部まで。面積はおよそ250万平方キロメートル、西ヨーロッパがすっぽり入る広さになる。そこに、言葉も習わしもさまざまな少数民族が、合わせて1億人近く暮らしている。
2002年、オランダの地理学者ウィレム・ファン・シェンデルは、この一帯を「ゾミア」と名づけた。いくつかの山地の言葉で「高地の人」を意味する語からとったものである。国境で区切って地域を研究すると、どの国でも辺境の端にしか見えないこの山地を、ひとつのまとまりとして見ようという提案だった。

山の人びとは、長く、文明から取り残された人びとと見なされてきた。文字を持たず、焼畑で移動を続け、大きな王国を作らない。平地の王朝にとって、彼らは教え導くべき「生蕃」であり、従わせて税を取るべき相手だった。近代の学者も、多くは同じ見方をしていた。
アメリカの政治学者ジェームズ・C・スコットは、若いころからマレーシアやビルマの農村を調べてきた人である。貧しい農民が、反乱ではなく、怠けたふり、こっそりの盗み、陰口といった目立たない手段で支配に抗う姿を描いた本で知られていた。そのスコットが、2009年の本(日本語訳の題は『ゾミア』)で、山の人びとの見方の順序を逆にして読んだ。山の人びとは取り残されたのではなく、平地の国家から逃げてきたのだ、と。稲作の盛んな平地の国家は、人を一か所に住まわせ、税を取り、労役に駆り出し、兵にとる。戦争と飢饉と疫病が人を追い立てることもある。そこから抜け出した人びとが、少しずつ山へ上がった。中国では、漢族の王朝が南へ広がるたびに、そうした動きがくり返されたと彼は考える。明や清の時代には、山地の首長を通じた間接の支配を改め、役人を直接送りこむ政策が進められ、反発と逃亡が続いた(清の中国支配)。
その目で見ると、山の暮らしの特徴の一つ一つが、国家から身を守る技術に見えてくる。焼畑は、いつでも村を移すことができる。芋や根菜は、地面の下にあって、収穫期をずらせるので、徴税人に数えられにくい。平らに広がる水田とは正反対である。系譜や民族のくくりがゆるやかなのは、集団を素早く分けたり組み直したりするためだ。文字を持たないことでさえ、記録を残さず、国家に把握されないための選択だったかもしれない、と彼は書く。いくつもの山の民に、昔は文字があったが失ってしまった、という言い伝えが残っている。
この見方は大きな反響を呼び、同時に強い批判も受けた。山地の人びとがみな逃げてきた人の子孫だという証拠は乏しい。山地にも、南詔や大理(大理国の成立)、シャンの王侯のような国家や首長国があった。山と平地は逃げる者と追う者の関係だけでなく、交易や婚姻で深く結びついていた。スコット自身も、これは論争のための挑発を含む議論だと認めている。それでも、国家の側の記録だけで辺境を語ることへの問い直しとして、ゾミアという言葉は広く使われるようになった。スコットはのちに、国家の成り立ちそのものを問う本も書いている(物語「『反穀物の人類史』で読む歴史」)。
20世紀の後半、山地は急速に国家にのみこまれていった。道路が山を越え、国境に柵と検問所が置かれ、人びとは国籍と身分証を持たされた。植民地からの独立(ビルマの独立)と冷戦下の内戦は、山地にも軍を送りこんだ。スコットは、距離と地形が国家の手を阻んでいた時代は、1950年ごろを境に終わったと見る。2000年近く続いた逃げ場は、そこで閉じた。