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Event / できごと

対人地雷禁止条約

Ottawa Treaty
AD1997年12月3日
重要度 3
カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドメキシコキューバAD1997年12月3日オタワ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1997年12月3日の版図を描いています(6勢力)。

概要

地面に埋められた対人地雷は、戦争が終わっても残り、畑を耕す農民や遊ぶ子どもの手足を奪い続ける。1990年代、カンボジアやアンゴラ、アフガニスタンなどでは、毎年何万人もが地雷で死んだり傷ついたりしていた。千を超える市民団体が手を組んで禁止を訴え、カナダの政府がこれに応えて、国連の軍縮の会議の外で、賛成する国だけを集めて条約づくりを進めた。1997年12月3日、オタワで122か国が署名した。対人地雷の使用、生産、貯蔵、移転を全面的に禁じる。その年のノーベル平和賞は、運動を率いた市民団体の連合に贈られた。アメリカ、ロシア、中国は加わっていない。

場所

オタワ
45.42°N -75.70°E · カナダ・オンタリオ州

本文

対人地雷は安く、作るのも埋めるのも簡単で、20世紀の後半の内戦で大量に使われた。地雷は戦争が終わっても土の中に残り、敵と味方の区別も、兵士と子どもの区別もしない。1990年代のはじめ、世界には一億を超える地雷が埋まっているといわれ、カンボジア、アンゴラ、アフガニスタン、モザンビーク、ボスニアなどで、毎年二万人を超える人が地雷で死んだり手足を失ったりしていた。その多くは、戦争が終わった後の市民だった。

1992年、地雷の被害者を助けてきた六つの市民団体が、地雷禁止国際キャンペーンを立ち上げた。運動は世界に広がり、千を超える団体が加わった。義足をつけた被害者たちが各地で証言し、写真と数字が人々の目を地雷に向けさせた。1997年1月、イギリスのダイアナ元皇太子妃は、アンゴラの地雷原を、防護服を着て歩いてみせた。

国連の軍縮会議では、すべての国の合意が要るため、禁止の話し合いは進まなかった。1996年10月、カナダの外相ロイド・アクスワージーは、オタワに各国を招いた会議の終わりに、1年後に全面禁止の条約に署名するために、もう一度オタワに集まろうと呼びかけた。賛成する国と市民団体だけで条約を作る「オタワ・プロセス」である。

1997年12月3日、オタワで122か国が条約に署名した。対人地雷の使用、開発、生産、貯蔵、移転を全面的に禁じ、蓄えた地雷は4年以内に、埋まっている地雷は10年以内に取り除くことを求める。条約は1999年3月に発効した。その年のノーベル平和賞は、地雷禁止国際キャンペーンと、その調整役ジョディ・ウィリアムズに贈られた。日本も署名し、蓄えていた百万個ほどの地雷を2003年までに廃棄した。

条約にはやがて160を超える国が加わり、地雷の生産と取引は大きく減った。だが、アメリカ、ロシア、中国、インド、パキスタンなどは加わっていない。2022年からのロシアのウクライナ侵攻では、地雷が大量に使われた。2025年には、ロシアと国境を接するフィンランドやバルト三国、ポーランドが、自国を守るためとして、条約からの脱退を表明している。

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