コテージ作戦
概要
1943年、米加連合軍がキスカ島に上陸した作戦。日本軍はすでに撤退しており、無人の島で同士討ちや地雷により死傷者を出した。
場所
51.96°N 177.46°E · アメリカ合衆国・アラスカ州(アリューシャン列島)
本文
コテージ作戦は、1943年8月、アメリカ軍とカナダ軍がアラスカのアリューシャン列島のキスカ島に上陸した作戦である。島を守っていたはずの日本軍は、2週間あまり前に霧に紛れて撤退していた。敵のいない島で、上陸部隊は味方同士の撃ち合いや残された地雷、仕掛け爆弾によって多くの死傷者を出した。
1942年6月、日本軍はミッドウェー海戦と並行してアリューシャン列島に兵を出し、アッツ島とキスカ島を占領した。アラスカの島が敵に占領されたことは、アメリカに大きな衝撃を与えた。キスカには海軍の特別陸戦隊500人が上陸してアメリカ海軍の気象観測所を襲い、2人を殺し、ほかの者を捕らえて日本へ送った。その後も兵が送り込まれて高射砲隊や工兵が置かれ、守備隊は5000人を超えた。霧と強風に閉ざされた北の島での暮らしは、敵の爆撃に加えて寒さと補給の乏しさとの戦いでもあった。

1943年5月、アメリカ軍はまずアッツ島を奪い返した。山崎保代大佐の率いる日本軍の守備隊2000人余りは5月29日に最後の突撃を行ってほぼ全滅し、大本営はこれを初めて「玉砕」と発表した。アメリカ軍も寒さと凍傷に苦しみ、大きな損害を受けた。北方の守りを受け持つ樋口季一郎中将は、同じ運命が待つキスカの守備隊を救うことを強く望んだと伝えられる。孤立したキスカ島はもはや守り切れないと判断した日本軍は撤退を計画する。7月29日、木村昌福少将の率いる艦隊が濃い霧に隠れて島に入り、1時間足らずのうちに守備隊5000人余りを収容して離れた。アメリカ海軍の封鎖が燃料補給のために途切れた隙を突いたものだった。日本軍は島に地雷や仕掛け爆弾、時限爆弾を残していった。
アメリカ側も変化に気づいていなかったわけではない。7月下旬から、航空写真では島の動きがめっきり少なくなり、爆撃の跡は直されず、対空砲火も弱くなった。7月28日以降、島からの無線はまったく聞こえなくなった。それでも上陸部隊は日本軍が島の奥に潜んでいると考え、8月の初めまで艦砲射撃と爆撃を続けた。上陸の訓練はアダック島で7月半ばから行われていた。
8月15日、アメリカ第7歩兵師団、山岳兵の第87歩兵連隊、カナダ第13歩兵旅団などからなる部隊が、戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦19隻などの艦隊に支えられて島の北西岸に上陸した。前夜には、アメリカとカナダの兵を合わせた特殊部隊、第1特殊任務部隊が南側の高地を押さえていた。この部隊にとっては初めての実戦だった。翌16日には、陽動に使われた輸送船からも兵が上陸した。
島は霧に覆われ、兵たちは見えない敵に神経をとがらせながら内陸へ進んだ。やがて、カナダ兵がアメリカ軍の兵を日本兵と思って撃ったのをきっかけに撃ち合いが起き、アメリカ兵28人とカナダ兵4人が死に、両軍で50人ずつが負傷したとされる。加えて、残された地雷や時限爆弾、弾薬の暴発、車両の事故が死傷者を増やした。17日から18日にかけての夜には、駆逐艦アブナー・リードが漂っていた日本の機雷に触れて艦尾がちぎれ、71人が死んだ。作戦全体での死傷者は500人を超えた。
上陸した兵が島で出会ったのは、置き去りにされた犬だけだったという話が伝わっている。こうしてアリューシャン列島をめぐる戦いは終わった。日本ではキスカ撤退は、敵に気づかれず守備隊を救い出した作戦として「奇跡の撤退」と呼ばれ、のちに映画にもなった。一方アメリカとカナダでは、空の島に大軍を送り込んで味方同士で撃ち合ったこの作戦は、霧と思い込みが生んだ苦い出来事として記憶されている。見えない敵への恐れは、ときに本物の敵よりも多くの犠牲を生む。第二次世界大戦の太平洋の北の果てで起きた、その典型のような出来事だった。