カラクタ共和国の焼き討ち
概要
自宅を独立国と宣言して軍事政権を歌で名指ししていた音楽家の家に、1000人の兵が押し入った。母親が窓から投げ落とされ、その傷がもとで死ぬ。
場所
6.52°N 3.38°E · ナイジェリア
関わった人(1)
フェラ・クティAD1938年10月15日–AD1997年8月2日 · 焼かれた側本文
ナイジェリアは1960年にイギリスから独立した(アフリカの年)。だが独立から6年で軍のクーデターが起き、続いて東部が分離を宣言して内戦になった(ビアフラ戦争)。内戦が終わったあとも軍が政権を握り続け、1970年代には石油の輸出で巨額の金が流れ込んだ。その金は一部の軍人や役人、商人の懐に入り、首都ラゴスの街には貧しい人々があふれた。
その矛盾を歌にしたのが、音楽家のフェラ・クティである。1938年、ヨルバ人の名家に生まれた。父は牧師で校長、母のフンミラヨ・ランサム=クティは、植民地時代から女性の権利と独立のために闘った活動家で、国際的にも知られていた。フェラは医学を学ぶためにロンドンへ送られたが、音楽の学校に入り直し、ジャズに夢中になった。1969年にアメリカを巡業したとき、黒人の権利を求める運動に触れ、自分の音楽をアフリカの人々の現実を語るものに変えようと決めた。ジャズ、ファンク、ヨルバの伝統の打楽器を混ぜ合わせ、一曲が10分、20分と続く「アフロビート」を生み出した。歌詞は、ナイジェリアの誰もが分かる崩れた英語、ピジン英語で書いた。

ラゴスに戻ったフェラは、自宅を中心とする敷地を「カラクタ共和国」と名づけ、ナイジェリアの法には従わない独立国だと宣言した。カラクタとは、彼が警察に捕まって入れられた留置場の名前から取ったものだという。家族、バンドの演奏家や踊り手、彼を慕う若者たちがそこに住み、録音の設備も診療所もあった。近くには、彼が夜ごと演奏するクラブ「シュライン」があった。
フェラは、軍事政権や役人の腐敗、植民地の名残の考え方を、遠慮のない言葉で歌った。1976年に発表した「ゾンビ」は、命令されれば考えずに行進し、止まれと言われれば止まる兵士を、生ける屍になぞらえて嘲った曲である。この曲はナイジェリア中で大ヒットし、街の人々は兵士を見ると「ゾンビ」と囃し立てた。軍の面子は丸つぶれになった。

1977年の初め、ラゴスでは、政府が国の威信をかけたアフリカ黒人芸術文化の国際祭典が開かれていた。フェラはこれを、金の無駄遣いだと公然と批判し、参加を拒んだ。祭典が終わって数日後の2月18日、カラクタ共和国に、およそ1000人の兵士が押し寄せた。きっかけは、カラクタの住人と兵士とのいざこざだったとされる。兵士たちは敷地を取り囲み、門を破って押し入り、住人を殴り、女性たちに暴行を加え、建物に火を放った。楽器も録音テープも、診療所も焼けた。フェラも激しく殴られて大けがを負った。
そのとき、76歳の母フンミラヨが、2階の窓から外へ投げ落とされた。彼女はその傷から回復せず、翌1978年4月に亡くなった。政府は調査委員会を設けたが、焼き討ちは身元の分からない「名も無い兵士」の仕業で、責任は特定できないと結論した。フェラはのちに、この言葉をそのまま題にした曲「アンノウン・ソルジャー」を作り、国家の暴力をごまかす言い回しとして告発した。

母の死後、フェラと仲間たちは、母の棺を担いで、当時の軍事政権の首班オバサンジョの住む兵営の門の前まで運んだ。そして、その出来事を「国家元首に棺を」という曲にした。焼き討ちから1年後の1978年2月には、カラクタに住んでいた女性の歌い手や踊り手27人と一度に結婚して世間を驚かせた。彼女たちを守るため、また世間の非難から立場を与えるためだったと説明している。フェラは政治にも乗り出して大統領選挙に名乗りを上げようとしたが、立候補は認められなかった。
フェラは生涯に何度も逮捕され、その数は200回を超えたとも言われる。1984年には、外貨の持ち出しの罪で投獄されたが、国際的な抗議を受けて2年足らずで釈放された。1997年、エイズによる合併症で亡くなり、ラゴスの葬儀には100万人を超える人々が集まったと伝えられる。カラクタの跡地には、いま彼の記念館が建っている。アフロビートは世界中の音楽家に受け継がれ、その名を冠したミュージカルも作られた。歌で権力に逆らった者の家が焼かれた日は、ナイジェリアの軍政の時代を語るときに必ず思い出される。