ヘレン・ケラー
概要
見えず聞こえない子が、指に綴られた「水」で言葉を得た。大学を出て、盲人の福祉と女性参政権と労働運動のために生涯語りつづけた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ヘレン・ケラーが言葉を得た日AD1887年4月5日 · 学んだ本文
1880年6月、アメリカ南部アラバマ州の小さな町タスカンビアで生まれた。父は南北戦争で南軍の大尉だった人で、地元の新聞を発行していた。生後19か月のとき、高い熱を出した。猩紅熱とも髄膜炎ともいわれ、病名ははっきりしない。熱は下がったが、彼女は見ることも聞くこともできなくなっていた。言葉を覚えはじめる前のことである。

それから5年近く、彼女は家族との間で60ほどの身振りの合図を作って暮らした。母のまねをして顔に触れ、パンを切るしぐさでパンを求める。だが、伝えられないもどかしさから、かんしゃくを起こし、物を投げ、食卓で人の皿から手づかみで食べた。親戚の中には、施設に入れるべきだと言う者もいた。
母は、イギリスの作家ディケンズの旅行記で、目も耳も不自由な少女ローラ・ブリッジマンがボストンの盲学校で言葉を学んだ話を読んでいた。両親は娘を連れて医者を訪ね歩き、その紹介で電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベルに会った。聾教育に力を注いでいたベルは、ボストンのパーキンス盲学校に手紙を書くよう勧めた。校長が推薦したのが、その年に学校を卒業したばかりのアン・サリヴァンだった。

サリヴァンは20歳だった。アイルランド系の貧しい移民の家に生まれ、幼くして母を亡くし、弟とともに救貧院に入れられた。弟はそこで死んだ。本人も目の病気でほとんど見えなくなり、手術で視力をある程度取り戻したあとも、目は弱いままだった。救貧院の視察に来た役人に、学校に行きたいと訴えて、パーキンス盲学校に入った人である。
1887年3月、サリヴァンはケラー家に着いた。最初の数週間は格闘だった。ヘレンはサリヴァンを殴り、歯を折ったこともある。サリヴァンは、甘やかす家族から離れて二人きりで暮らすことを求め、食卓の作法から根気よく教えた。そして、人形を渡しては手のひらに d-o-l-l と指で綴り、物と綴りを結びつけようとした。ヘレンは綴りをまねることはできたが、それが物の名前だということは分からなかった。

4月のある日、二人は庭の井戸のポンプのところへ行った(ヘレン・ケラーが言葉を得た日)。サリヴァンはヘレンの片手を流れる水の下に置き、もう片方の手のひらに w-a-t-e-r と綴った。その瞬間、ヘレンは、この冷たく流れるものに名前があることを悟った。後年の自伝で、彼女は、忘れていたものを思い出すような感覚だったと書いている。すべての物には名前がある。その日のうちに、彼女は地面に触れて名前を尋ね、30ほどの言葉を覚えたという。
そこから先の歩みは速かった。ルイ・ブライユが考えた点字で本を読み、文章を書き、やがて話すことも学んだ。相手の唇とのどに指を当てて言葉を読み取る方法も身につけた。ただ、11歳のとき、自分が書いた短い物語が、以前に読んでもらった別の作家の話とよく似ていることが分かり、盗作を疑われて盲学校で取り調べを受けた。本人は聞いた話を覚えていたことに気づいていなかった。この経験は彼女を長く苦しめた。

1900年、女子のための名門ラドクリフ・カレッジに入学した。教科書の多くは点字になっておらず、サリヴァンが講義と本の中身を一語一語ヘレンの手に綴った。1904年、優等で卒業する。見えず聞こえない人が学士号を得たのは、これが初めてだった。在学中に書いた自伝『わたしの生涯』は、多くの言語に訳された。
卒業後のケラーは、書くこと、語ることを仕事にした。盲人のための福祉を訴えただけではない。目の見えない人が貧しい労働者の中に多いことを調べるうちに、失明の原因が工場の事故や貧困にあることを知り、社会の仕組みそのものに目を向けた。1909年にアメリカ社会党に入り、女性の参政権や、避妊の権利、労働者の団結を支持し、第一次世界大戦への参戦にも反対した。女性が全国で投票できるようになる憲法の修正(女性の参政権(アメリカ))は、1920年に実現する。1920年には、言論の自由を守る団体アメリカ自由人権協会の設立にも加わっている。

その主張に対して、ある新聞は、彼女の誤りは発達の限界からくるものだ、と書いた。ケラーは、以前その新聞の記者に会ったとき、彼は私をほめちぎっていたのに、私が社会主義者だと分かったとたん、私の障害を持ち出してきた、と反論した。障害を持つ人が政治について語ることを、社会は簡単には受け入れなかった。
1924年からは、アメリカ盲人援護協会のために全国を回って募金を集め、のちには世界の数十か国を訪れた。日本にも1937年、1948年、1955年の3度訪れている。1937年の訪問の際には秋田犬を贈られ、アメリカへ連れ帰った。
1936年、サリヴァンが死んだ。50年近く、ケラーの手のひらに世界を綴り続けた人だった。その後は秘書のポリー・トムソンが付き添った。1961年に脳卒中で倒れてからは表に出なくなり、1968年6月、87歳で自宅で死んだ。
二人の出会いは、戯曲と映画『奇跡の人』で世界中に知られている。ただ、そこで「奇跡の人」と呼ばれているのは、もともとはヘレンではなく教師のサリヴァンのほうである。井戸の場面で終わる物語の後に、社会と政治について語り続けたケラーの長い後半生があったことは、あまり知られていない。