概要
1858年の夏、テムズが悪臭を放ち、議会が石灰を浸した布を窓に垂らした。「大悪臭」。18日で法案が通り、ジョゼフ・バザルジェットが132キロの主要下水管と1800キロの支管を作った。汚水を川へ直接流さず、下流へ運ぶ。彼は必要な管の径を計算し、それを2倍にした(「予想外のことは必ず起きる」)。コレラが消えた。堤(エンバンクメント)が造られ、その下に下水管と地下鉄が通った。150年、いまも使われている。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ジョゼフ・バザルジェットAD1819年3月28日–AD1891年3月15日 · 作った本文
19世紀前半のロンドン。人口が100万から250万へ。排泄物は、家の下の汚水溜め(セスプール。20万か所以上)に溜め、汲み取り屋が運び出して、郊外の農地に売った。
1840年代、水洗便所が普及し始めた。汚水溜めが溢れた。当局は、汚水を下水管に流すことを許可し、下水管はそのままテムズに口を開けていた。
同じテムズから、水道会社が飲み水を取っていた。
コレラ。1832年(6536人死亡)、1849年(1万4137人)、1854年(1万738人)。ジョン・スノウが1854年に水が原因だと示したが、当局は「悪い空気(瘴気)」説を採り続けた。
1858年6月。異常な猛暑。気温が36度を超えた。テムズの水位が下がり、堆積した汚物が日に晒された。
「大悪臭(グレート・スティンク)」。国会議事堂(テムズに面して、1852年に完成したばかり)の窓に、塩化石灰を浸した布が垂らされた。議事が中断した。ディズレーリ(当時の下院院内総務)が、書類を鼻に当てて、部屋から逃げ出した。
議会が動いた。それまで10年、費用をめぐって止まっていた下水道の計画が、18日で法案として通り、300万ポンドの起債が認められた。
ジョゼフ・バザルジェット。首都建設委員会(メトロポリタン・ボード・オブ・ワークス)の技師長。39歳。
設計。
(1)遮集式。テムズに向かって流れていた既存の下水を、川の手前で、川と平行に走る大きな管(インターセプター)で受け止め、下流(北岸はベックトン、南岸はクロスネス。当時のロンドンの外)まで運んで、干潮のときに放流する。
(2)主要下水管132キロ、支管1800キロ。煉瓦3億1800万個。ポルトランド・セメント(当時、新しい材料。彼は納入されるセメント全部を試験させた)。
(3)断面は卵形。上が広く、下が狭い。水量が少ないときも、狭い底で流速が保たれて、固形物が沈まない。
(4)勾配。可能な限り自然流下。足りない所にポンプ場を作った(アブビー・ミルズ、クロスネス、デットフォード。どれも、当時の意匠を凝らした建築で、クロスネスの鋳鉄の装飾は「下水の大聖堂」と呼ばれる)。
(5)そして、管の径。彼は、当時のロンドンの人口と、一人あたりの排水量から、必要な径を計算した。そして、その数字を2倍にした。
「我々は、これを一度しかやらない。予想外のことは、必ず起きる」。
(実際、その後ロンドンの人口は3倍以上になり、水洗便所が普及して一人あたりの排水量も増えた。彼が2倍にしていなかったら、19世紀のうちに破綻していた。)
1859年着工、1865年に主要部が完成(クロスネス・ポンプ場の開所式に、皇太子が出席した)。1875年、全体が完成。
テムズ堤(エンバンクメント)。川岸を埋め立てて、その中に、北岸の主要下水管と、地下鉄(ディストリクト線)と、ガス管と水道管を通し、上に道路と遊歩道を作った。ロンドンの川岸の景観が、これでできた。
結果。1866年、イースト・ロンドン(まだ新しい下水に接続されていなかった地域)で最後のコレラの流行(5596人死亡)。それ以後、ロンドンでコレラの大流行は起きていない。
1875年、ナイト。1891年、死んだ。71歳。
いま、テムズ堤に、彼の胸像がある。刻まれた言葉。「FLUMINI VINCULA POSUIT(彼は川に軛を置いた)」。
2016年から、テムズ・タイドウェイ・トンネル(豪雨のとき、彼の下水が溢れて川に流れ込む問題を解決するための、直径7.2メートル、長さ25キロの新しい大深度トンネル)が建設され、2025年に稼働した。150年で、初めての大きな更新。