人物

エリザベス・ブラックウェル

Elizabeth Blackwell
AD1821年2月3日 – AD1910年5月31日(享年89)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

アメリカで医学の学位を取った最初の女性。29の医学校に断られ、学生の投票という冗談で入学を認められた。女性のための病院と医学校を建てた。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

女性が初めて医学の学位を得るAD1849年1月23日 · 卒業

本文

1821年2月、イギリスの港町ブリストルで、砂糖精製業を営むサミュエル・ブラックウェルの娘として生まれた。父は国教会に属さない信仰の人で、奴隷制に反対し、娘たちにも息子たちと同じ教育を受けさせた。1832年、事業の失敗と火事をきっかけに、一家は大西洋を渡ってアメリカに移った。父はそこで、奴隷の労働に頼らない砂糖づくりを夢見たが、1838年、移り住んだオハイオ州シンシナティで急死した。残された母と9人の子どもたちは、姉妹で学校を開いて暮らしを立てた。

エリザベス・ブラックウェルの肖像
エリザベス・ブラックウェルの肖像Wikimedia Commons Hobart and William Smith Colleges Archives · Public domain

若いエリザベスは、医学に興味があったわけではない。むしろ体や病気の話は苦手だったと、本人は自伝に書いている。きっかけは、重い病で死にかけていた知り合いの女性の言葉だった。女性の医師に診てもらえていたら、こんなに恥ずかしい思いをせずに済み、苦しみも少なかっただろう、と。当時、女性の患者は男性の医師に体を見せることをためらい、手遅れになることも多かった。そして、アメリカに女性の医師は一人もいなかった。

1845年、24歳のエリザベスは医者になることを決めた。教師として働いて学費を貯めながら、理解のある医師の家に住み込んで医学書を読んだ。それから医学校に願書を出し始めた。フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンの名だたる学校は、どこも彼女を断った。男装して入学すればよいと勧める者もいたが、彼女は断った。女性として医者になることに意味があったからである。断られた学校は29校にのぼったと伝えられる。

エリザベス・ブラックウェルの肖像、コズロウスキ画(1963年)
エリザベス・ブラックウェルの肖像、コズロウスキ画(1963年)Wikimedia Commons Joseph S. Kozlowski · Public domain

1847年、ニューヨーク州の小さな町にあるジェニーヴァ医学校に願書が届いた。教授たちは、断る口実として、学生たちに判断を委ねた。学生が一人でも反対すれば入学させない、という条件だった。学生たちは、これを他校のいたずらだと思い込み、面白がって全員一致で賛成した。数週間後、本当に女性が教室に現れて、町は騒ぎになった。

学校での日々は孤独だった。町の女性たちは、医学を学ぶ女はまともではないと彼女を避け、下宿の食卓でも口をきいてもらえなかった。解剖学の講義で生殖器を扱う日には、教授から欠席を求められたが、彼女は手紙で、学問のために出席させてほしいと訴え、許された。男子学生たちは、はじめは騒いだが、やがて彼女の真剣さに敬意を払うようになったという。

ニューヨーク施療院付属女子医科大学の案内(1868〜69年)
ニューヨーク施療院付属女子医科大学の案内(1868〜69年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1849年1月、彼女は首席でジェニーヴァ医学校を卒業した(女性が初めて医学の学位を得る)。アメリカで医学の学位を得た最初の女性である。卒業式で学位を受け取ったとき、彼女は、この学位に恥じない者になることを生涯の目標にします、と答えたと伝えられる。

だが、学位を得ても、アメリカの病院で経験を積む道は閉ざされていた。彼女はヨーロッパへ渡り、パリの大きな産科病院で、助産師を目指す学生の一人として研修を受けた。1849年の秋、生まれたばかりの赤ん坊の目の感染症を治療していたとき、洗浄液が自分の目に飛び込んだ。感染した左目は、まもなく光を失い、のちに摘出されて義眼になった。外科医になる夢は、ここで絶たれた。それでも彼女はロンドンの病院で研修を続け、そこでフローレンス・ナイチンゲールと出会って、生涯にわたる友情を結んだ。

1974年の米国切手に描かれたブラックウェル
1974年の米国切手に描かれたブラックウェルWikimedia Commons U.S. Printing Office · Public domain

1851年、ニューヨークに戻って開業した。だが患者はほとんど来なかった。女性の医者という存在が信じてもらえず、家主に看板を出すことを拒まれ、街で中傷の手紙を受け取ることもあった。彼女は貧しい地区で小さな診療所を開き、無料に近い料金で女性と子どもを診た。

1857年、医師になった妹のエミリー、ポーランド出身の女性医師マリー・ザクシェフスカとともに、ニューヨーク女性・小児病院を開いた。医師も職員も女性が中心で、貧しい女性と子どもを診るとともに、女性の医学生や看護師が実地で学べる場にもなった。

1861年に南北戦争が始まると、彼女は北軍のための看護師を選び、訓練する組織づくりに加わった。ナイチンゲールがクリミア戦争のスクタリの野戦病院で示した、衛生と看護の考え方を広げようとしたのである。1868年には、病院に付属する女性のための医学校を開き、衛生学を教えた。病気を治すことと同じくらい、清潔な暮らしで病気を防ぐことが大切だ、というのが彼女の信念だった。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

1869年、彼女はイギリスに移り住んだ。すでに1859年、イギリスの医師名簿に女性として初めて名前が載っていた。ロンドンでは、女性のための医学校の設立に加わり、そこで婦人科の教授を務めた。予防医学や衛生、子どもへの性教育の大切さを説く本も書いた。一方で、動物の生体解剖には強く反対し、新しく出てきた細菌が病気の原因だという説には、最後まで懐疑的だった。

結婚はしなかったが、孤児の少女キティを引き取って育て、生涯をともにした。ブラックウェル家は、社会を変える人びとを多く出した一族で、妹のエミリーも医師になり、兄弟の妻たちには、アメリカで最初期の女性牧師や、女性参政権運動の指導者がいた。

養女キティと犬たちとともに写るブラックウェル(1905年)
養女キティと犬たちとともに写るブラックウェル(1905年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1907年、スコットランドで休暇中に階段から落ちて体が不自由になり、1910年5月、イギリス南部の海辺の町ヘイスティングスで死んだ。89歳だった。彼女が学位を得てから半世紀あまりの間に、アメリカとイギリスの女性医師の数は数千人にまで増えていた。

動画(1)

Dr.エリザベス・ブラックウェル 〜医学が阻んだ逆転ヒロイン〜【65-1 COTEN RADIOショート エリザベス・ブラックウェル編1】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO女性が医者になれなかった仕組みから入るシリーズの第1回
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