植木枝盛
概要
土佐出身の自由民権運動家。私擬憲法の中でもっとも急進的とされる『東洋大日本国国憲按』を起草した。
本文
植木枝盛は明治の自由民権運動の思想家で、のちの衆議院議員である。1881年、民間で数多く作られた憲法案、いわゆる私擬憲法のうち、もっとも民主的で急進的とされる『東洋大日本国国憲按』を書いた。早く世を去って一度は忘れられたが、戦後の日本国憲法との関わりで再び光が当たった。
1857年、土佐藩士植木直枝の長男として、土佐国土佐郡井口村(現在の高知市)に生まれた。藩校の致道館に学び、1873年の征韓論政変に触発されて上京を志した。1875年、19歳で東京に出ると、慶應義塾の三田演説会に通って福沢諭吉の教えを受け、新聞への投書を盛んに始めた。翌年、投書「猿人君主」が言論を取り締まる讒謗律に触れ、2か月入獄している。
1877年、板垣退助に従って高知へ帰り、立志社に加わった。立志社は、民撰議院設立建白書を出した板垣らが1874年に作った政治結社で、国会の開設を求める運動の拠点だった。植木は建白書の起草や機関紙の編集を担い、四国・中国地方を遊説して回った。1879年には『民権自由論』を出し、人は生まれながらに自由の権利を持つと平易な言葉で説いた。のちには『東洋之婦女』などで女性の地位や権利についても論じている。

国会を求める声は全国に広がり、1880年には国会期成同盟が結成された。同盟は各地の結社に憲法案を持ち寄るよう呼びかけ、武蔵の五日市の人々の案をはじめ、民間の憲法草案が次々と書かれた。私擬憲法の一大流行である。植木の『東洋大日本国国憲按』もその一つで、政府が明治十四年の政変を経て10年後の国会開設を約束した1881年に書かれた。
全220条からなるその中身は大胆だった。日本を旧国ごとの「州」に分けて連邦とし、連邦は州の内政に干渉できないとした。立法院は一院で、立法権は人民全体が持つ。思想・言論・集会の自由などを幅広く認め、政府が憲法に背いて人民の権利を踏みにじるときには、人民はこれに従わず、さらには新しい政府を建てることができるとした。抵抗権や革命権まで書き込んだ点に、ジョン・ロックの影響を見る研究者は多い。一方で皇帝(天皇)を連邦の行政府の長とし、軍の指揮権も皇帝に置いていて、君主を戴く立憲制の枠の中での構想だった。
1882年には酒税の引き上げに反対する酒屋会議を大阪で開き、自由党の機関紙『自由新聞』の社説を中江兆民らと受け持った。1886年に高知県会議員となり、1890年の第1回総選挙で衆議院議員に当選して第一回帝国議会に臨んだ。議場ではすぐに腹を立てて怒鳴る「怒り上戸」として、からかわれる文章も残っている。翌年には板垣らと意見が分かれて立憲自由党を離れた。1892年1月、第2回総選挙を前に胃潰瘍が悪化し、数え36歳で死んだ。あまりに急な死だったため、毒殺説もささやかれた。
1889年に大日本帝国憲法の発布が発布されると、私擬憲法は政府への反逆の印とみなされ、多くが隠され、忘れられた。1936年、憲法学者の鈴木安蔵が高知県立図書館で植木の文書を調べ、その内容を世に出した。敗戦後の1945年12月、鈴木が加わった民間の憲法研究会は「憲法草案要綱」を発表し、植木の案を参考の一つにしたと鈴木は証言している。この要綱はGHQが草案を作る際に参照されたため、植木の構想は日本国憲法の遠い源流の一つとみなされている。2000年には、彼の文章に由来する「自由は土佐の山間より」が高知県の県詞に定められた。