東条英機
概要
「カミソリ」。関東軍参謀長、陸相、1941年10月に首相。真珠湾の決定。陸相と参謀総長を兼ねた。サイパン陥落で辞任。敗戦後にピストルで胸を撃って死ねなかった。東京裁判で「戦争は自衛」と述べ、絞首刑。靖国に合祀され、それが問題になり続けている。
所属
日本関わったできごと(1)
東京裁判AD1946年5月3日 · 絞首刑本文
1884年12月30日、東京に生まれた。父の東条英教は陸軍大学校の第1期を首席で出た秀才で、戦術の理論家として知られたが、日露戦争で旅団長として前線に出たあと第一線から外され、中将で予備役に回された。英機は、父が長州出身者の派閥に疎まれたためだと信じ、その思いを生涯持ち続けたと言われる。

陸軍士官学校を経て、陸軍大学校に入ったのは3度目の受験だった。才気で光るというより、努力と几帳面さで道を開く人だった。何でも手帳に書き留め、書類の処理が速く正確で、のちに「カミソリ」とあだ名される。第一次世界大戦の後にはドイツなどに駐在し、総力戦の時代には国の経済も国民も戦争のために組織しなければならない、という考えを学んだ。1921年、ドイツの保養地バーデン=バーデンで、同期の永田鉄山らが陸軍の改革を誓い合った会合に、東条も加わったとされる。
陸軍の中では、永田を中心とする「統制派」に属した。天皇のもとでの直接行動を叫ぶ「皇道派」の青年将校たちと対立し、1935年に永田が皇道派の将校に斬殺されると、その対立は頂点に達した。翌1936年の二・二六事件のとき、東条は満州で関東軍の憲兵隊を率いており、現地で皇道派に通じる者を素早く検挙した。事件のあと皇道派は一掃され、統制派の軍人たちが陸軍を握った。
1937年に関東軍の参謀長となり、日中戦争が始まると、自ら兵団を率いて内モンゴル方面へ進んだ。翌年、陸軍次官として東京に戻り、1940年7月、第2次近衛文麿内閣の陸軍大臣になった。この内閣のもとで日独伊三国同盟が結ばれ、日本軍はフランス領インドシナへ進んだ。アメリカは日本への石油の輸出を止めた。

1941年秋、近衛はアメリカとの交渉の妥結を望み、その条件として中国からの撤兵を考えた。東条は陸相として、撤兵は中国で死んだ兵たちの犠牲を無にするものだと強く反対した。近衛内閣は行き詰まって10月に総辞職した。後継の首相に東条を推したのは、天皇の側近の内大臣木戸幸一だった。開戦を叫ぶ陸軍を抑えられるのは、陸軍の中心にいて天皇の意向に忠実な東条しかいない、という逆説の選択だった。昭和天皇は東条に、9月の御前会議で決めた「10月上旬までに交渉がまとまらなければ開戦を決意する」という方針を白紙に戻して検討し直すよう求めた。
10月18日、東条内閣が発足した。東条は首相と陸相に加えて内相も兼ねた。交渉の条件は練り直されたが、11月5日の御前会議では、交渉が不調なら12月初めに開戦するという方針が決まった。11月26日、アメリカから中国からの全面撤兵などを求めるハル・ノートが届き、政府と軍はこれを最後通牒と受け止めた。12月1日の御前会議で開戦が決まり、12月8日、日本は真珠湾攻撃とマレー半島への上陸で戦争を始めた。

緒戦の勝利で、東条の人気は高まった。1942年には、政府の推す候補を当選させる翼賛選挙を行った。1943年11月には、日本の占領地や同盟国の代表を東京に集めて大東亜会議を開き、欧米の植民地支配からのアジアの解放をうたった。しかし戦局は、すでに前年6月のミッドウェー海戦を境に傾いていた。東条は憲兵を使って批判者を押さえ込み、政府に批判的な記事を書いた新聞記者を前線に送るようなこともあったとされる。
1944年2月、東条は陸相のまま、作戦を指揮する参謀総長まで兼ねた。軍の作戦と政治を一人で握ることは、統帥権の独立を重んじる軍の中からも強い反発を受けた。それでも、海軍や天皇の統帥まで支配できたわけではなく、ヒトラーやスターリンのような独裁者とは性格が違うと指摘する研究者は多い。7月、マリアナ諸島のサイパンの戦いで日本軍が全滅し、本土が爆撃の圏内に入った。重臣たちの倒閣の動きに押されて、東条内閣は7月18日に総辞職した。

1945年8月の敗戦の後、9月11日、アメリカ軍の憲兵が逮捕のために東京・用賀の自宅に来たとき、東条は拳銃で自分の胸を撃った。弾は心臓をそれ、アメリカ軍の医師の手当てで命を取り留めた。かつて陸相として兵士たちに「生きて虜囚の辱めを受けず」と説く戦陣訓を示した人が、自決に失敗して敵の手で生かされたことを、多くの国民は冷ややかに見た。
1946年に始まった東京裁判では、開戦の責任を負う中心の被告となった。1947年12月、法廷で、日本の臣民が天皇の意思に反して何かをすることはありえない、と答えた。この言葉は、開戦も天皇の意思だったと言っているように受け取られかねなかった。天皇を訴追しない方針を固めていた連合国の検察側は慌て、年が明けた1948年1月、東条は再び法廷で、天皇は自分たちの進言を受けて、しぶしぶ開戦に同意したのだと述べた。東条は、戦争に負けた責任は自分にあると認めたが、この戦争は自衛のためのものであり、国際法上の犯罪ではない、と最後まで主張した。

1948年11月12日、絞首刑の判決が下った。12月23日の午前0時過ぎ、巣鴨の拘置所で、ほかの6人とともに処刑された。63歳だった。最期に天皇陛下万歳を唱えたと伝えられる。遺体は横浜で火葬され、遺骨は占領軍によって処分された。遺族の手に渡らないようにするためだった。火葬場に残った灰の一部はひそかに持ち出され、のちに愛知県の三ヶ根山に築かれた墓所に納められている。
1978年、東条ら東京裁判で「A級戦犯」とされた14人が、靖国神社に合祀された。翌年それが報じられると、首相や閣僚の参拝のたびに、中国や韓国の強い反発を招くようになった。昭和天皇は合祀の後、靖国神社に参拝していない。合祀に不快感を示していたという側近のメモが、2006年に明らかになっている(昭和天皇)。
東条英機は、開戦の首相として、戦争そのものの象徴になった。だが開戦は、天皇と重臣、陸軍と海軍、政府が積み重ねた決定の結果でもあった。すべてを一人の人物に負わせることへの疑問と、その人物が負うべき責任の重さ。東条をめぐる議論は、日本があの戦争をどう記憶するかという問いと重なり合ったまま、今も続いている。