人物

太田資正

Ota Sukemasa
1522年 – 1591年(享年69・推定)
扇谷上杉氏重要度 2

概要

武蔵岩付城の城主。北条氏に抗い続け、城を追われた後は佐竹氏のもとで常陸片野城に拠った。犬を伝令に使った話で知られる。

本文

太田資正は、1522年(大永2年)、扇谷上杉氏の家臣、太田資頼の次男として生まれた。太田氏は武蔵国の岩付城(いまのさいたま市岩槻区)を拠点とする家である。1536年に父が死ぬと兄の資顕が家を継いだが、資正は兄と仲が悪く、岩付を出て舅の難波田憲重が守る武蔵の松山城に身を寄せたとされる。憲重は北条氏との戦いで息子たちを失っており、資正はその婿として松山城を継ぐ立場を得た。

相模から勢力を伸ばす後北条氏に対し、兄は従う側に傾いたが、資正は扇谷上杉氏に仕え続けた。1546年の河越夜戦で主君の上杉朝定と舅の憲重が討ち死にし、扇谷上杉氏は滅んだ。資正は松山城を退いて上野に身を潜めたが、翌1547年9月、北条の隙を突いて松山城を奪い返した。同じ年に兄が死ぬと、12月には主のいない岩付城を攻めて、力ずくで家を継いだ。しかし松山城を任せた一族の上田朝直が北条方に寝返り、岩付城も囲まれ、1548年1月には北条氏康に降った。

北条の家臣となってからの資正は、常陸方面で戦い、周りの大名との交渉の取り次ぎを務めた。氏康は名門の太田家に気を配り、資正の嫡男の氏資と自分の娘を婚約させた。ところが1560年、越後の上杉謙信が大軍を率いて関東に攻め込むと、資正はこれに応じて上杉軍の先鋒を務め、北条とはっきり敵対した。以後、北条氏は何度も岩付城と松山城に攻め寄せることになる。

このころの資正について、江戸時代の軍記『関東古戦録』は犬の話を伝えている。資正は岩付城と松山城の両方で犬を飼い慣らしておき、松山城が敵に囲まれると、密書を結びつけた犬を放って岩付へ急を知らせ、援軍を呼んだという。日本で犬を戦に使った早い例として、軍用犬の始まりのように語られることも多い。ただし、事件から100年以上たってから書かれた軍記の話であり、どこまで事実かは確かめられていない。松山城は1563年、北条氏康と武田信玄の大軍に囲まれ、謙信の救援が間に合わないうちに開け渡された。

1564年、資正は房総の里見氏とともに第二次国府台合戦で北条と戦って敗れた。同じ年の7月、資正が里見氏のもとへ助けを求めに出かけた隙に、北条寄りだった息子の氏資が岩付城を乗っ取り、北条に降った。資正は自分の城を追われ、翌年には取り戻そうとして果たせず、出家して三楽斎道誉と名乗った。その後は常陸の佐竹義重を頼り、佐竹が奪った片野城(いまの茨城県石岡市)を任されて、ここから北条と戦い続けた。

資正は上杉と佐竹の間を取り次ぐ役も担ったが、佐竹に傾く資正に謙信は不満を募らせた。1569年に北条と上杉が手を結ぶと(越相同盟)、資正は反対し、片野城を捨てて岩付へ戻れという両家の求めにも応じなかった。1570年、謙信は資正に、今日までは頼もしく思っていたが、この先は知らない、という絶交の手紙を送った。のちに謙信はこれを悔やみ、1570年代半ばに両者は和解している。資正はさらに、織田信長とも連絡を取り、謙信の死を信長に知らせたりもした。

本能寺の変の後、北条と佐竹の争いが激しくなると、次男の梶原政景が一時北条に通じて佐竹に背いた。資正はこれをきっかけに三男の資武を跡継ぎとした。1590年、豊臣秀吉の小田原攻め(秀吉の天下統一)に際しては、小田原に参陣して秀吉に会った。だが、北条が滅んだ後も故郷の岩付に戻ることはかなわず、翌1591年に片野城で病死した。生涯の大半を北条と戦って過ごし、城を失っても旗を降ろさなかった武将だった。資武はのちに徳川家康の次男の結城秀康に仕え、子孫は越前の福井藩の家臣となった。

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