ハーラル美髪王
概要
ノルウェーの小王の一人が、「国を一つにするまで髪を切らない」と誓い、ハフルスフィヨルドで勝って切った。負けた者はアイスランドに逃げた。サガの伝えで、史実の輪郭は薄い。
関わったできごと(1)
ハフルスフィヨルドの戦いAD872年頃 · 勝者本文
古ノルド語ではハラルドル・ハールファグリ、「美しい髪のハーラル」。ノルウェーを初めて一つの王国にまとめた王として、ノルウェーの歴史の最初に置かれる人物である。ただし、その生涯を詳しく語るのは、彼の死から300年ほどのちの13世紀にアイスランドで書かれたサガ(散文の物語)で、とくにスノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスクリングラ』(スノッリ『ヘイムスクリングラ』)の中の『ハーラル美髪王のサガ』である。同時代の史料はほとんどなく、どこまでが史実かを見分けるのは難しい。

サガによれば、ハーラルは南東ノルウェーのヴェストフォルを中心に治めた小王、ハールヴダン黒王の子で、父が氷の割れた湖に落ちて死んだあと、10歳で王位を継いだ。当時のノルウェーは、フィヨルドや谷ごとに小王や首長が割拠する土地だった。若いハーラルは、ホルダランの王の娘ギューザに求婚したが、ギューザは、ノルウェー全土を治める王でなければ妻にはならないと答えた。ハーラルはこれに奮い立ち、ノルウェーのすべてを手に入れるまで髪を切らず、櫛も入れないと誓った。伸び放題の髪から、人々は彼を「もじゃもじゃのハーラル」と呼んだという。
ハーラルは内陸の谷の王たち、北のトロンデラーグの首長たちを次々に従え、最後に南西部の王たちの連合軍を、スタヴァンゲル近くのハフルスフィヨルドの海戦で破った(ハフルスフィヨルドの戦い)。誓いを果たした彼は、ようやく髪を切らせた。切ったのは、盟友のメーレのラグンヴァルド伯だった。その美しい髪から、彼は「美髪王」と呼ばれるようになった。ギューザも約束どおり妻になった。

この戦いには、同時代に近い証拠が一つある。宮廷詩人ソルビョルン・ホルンクローヴィの作とされる詩『ハラルドの歌』の断片で、ハフルスフィヨルドでの戦いを歌い、敗れた敵は傷を負って盾を背負い、船の腰掛けの下に身を隠して逃げた、と描く。戦い自体はあったとみてよい。だが、サガが伝える872年という年は後世の計算によるもので、いまの研究では880年代から900年頃と見る説が多い。また、彼の支配が及んだのは、主にノルウェーの西部の沿岸で、内陸や北部は地元の首長が従っていただけだったとみられている。「ノルウェーの統一」と呼べるほどの国だったかどうかには疑問が残る。
サガは、ハーラルの強引な支配を嫌った首長たちが、一族を連れて西の海へ逃れたと伝える。その行き先の一つがアイスランドだった(アイスランド入植)。アイスランドの人々が自分たちの起源を語るとき、王の圧政から自由を求めて海を渡った先祖という物語は大事な柱になった。実際には、入植の理由は土地を求める移住など様々で、サガの語りは後世のアイスランド人の自己像を映したものでもある。ハーラルを中心に置くサガそのものが、アイスランドで書かれたことには注意がいる。

ハーラルには多くの妻と、20人ともいう子がいた。晩年、彼は息子たちに国を分けて与え、なかでも寵愛したエイリークを上に立つ王とした。エイリークは兄弟を何人も殺し、「血斧王」と呼ばれた。一方、末子のホーコンは、イングランドのアゼルスタン王のもとに預けられて育ち、キリスト教徒として帰国した。ハーラルの死後、ホーコンは兄エイリークを追って王となり、「善王」と呼ばれたが、異教の首長たちの反発で、国にキリスト教を広めることはできなかった。
ハーラルは930年代の初めに80歳ほどで死んだと伝わる。彼の築いた王権は、息子たちの争いの中で何度も分かれ、また集められた。それでも、のちのノルウェーの王たちは、ハーラル美髪王の血を引くことを王位の正統の証しとした。11世紀のハラルド苛烈王もその一人である。

西海岸の町ハウゲスンには、ハーラルの墓と伝えられる場所があり、1872年、「ノルウェー統一1000年」を記念して大きな記念碑が建てられた。そのころのノルウェーはまだスウェーデン国王の下の連合王国の一部で、完全な独立は1905年である。人々は、統一の祖を顕彰することで、自分たちの国の古さと独り立ちの願いを確かめていた。サガの誓いの物語は、こうして近代の国民の物語にもなった。