加藤清正
概要
豊臣秀吉に仕えた武将。賤ヶ岳の七本槍の一人で、朝鮮出兵で戦い、熊本城を築いた。関ヶ原では東軍に属し肥後一国を治めた。
本文
加藤清正は、永禄5年(1562年)、尾張国愛知郡中村(いまの名古屋市中村区)に生まれた。幼名は夜叉丸、通称は虎之助である。父の加藤清忠は早くに亡くなった。母が豊臣秀吉の母と縁続きだったことから、幼いころから秀吉に仕えるようになり、子飼いの家臣として育てられた。同じように秀吉のもとで育った福島正則とは、幼なじみの間柄だった。
清正の名が知られたのは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。秀吉が柴田勝家を破ったこの戦いで目覚ましい手柄を立てた若い武将たちは、のちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれ、清正はその一人に数えられた。3000石を加増され、秀吉が関白になった1585年には従五位下・主計頭(かずえのかみ)に任じられている。清正は槍働きだけの武将ではなく、領地の経営や兵糧の手配など、実務にも優れていた。

天正15年(1587年)の九州攻めののち、肥後国を与えられた佐々成政が国衆の一揆を招いて改易されると、翌年、清正は肥後の北半分およそ19万5千石を与えられ、隈本城に入った。南半分を与えられたのは、のちに激しく対立する小西行長である。清正は領内で治水や新田の開発に力を注ぎ、肥後の川に多くの堤や堰を築いた。熊本の人々がいまも「清正公(せいしょこ)さん」と呼んで親しむのは、この土木の仕事によるところが大きい。
文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮へ兵を送った(文禄・慶長の役)。清正は二番隊を率いて釜山に上陸し、一番隊の小西行長と先を争うように北へ進んで漢城(いまのソウル)に入った。さらに咸鏡道の奥まで攻め込み、朝鮮の二人の王子を捕らえている。戦いの合間に槍で虎を退治したという話は有名だが、これは後世に広まった逸話の色合いが濃い。熊本の銘菓「朝鮮飴」は、清正が朝鮮の陣に持っていった保存食だったという言い伝えがあり、それが名の由来とされる。

戦いの中で、清正は講和を進めようとする行長や、秀吉のもとで戦況を伝える石田三成らと深く対立した。一時は秀吉の怒りを買って帰国を命じられ、謹慎させられたとも伝えられる。慶長2年(1597年)に再び出兵すると、清正は蔚山に城を築いたが、その年の暮れに明と朝鮮の大軍に囲まれた。城は完成しておらず、水も食料も尽きかけた中で、清正は兵を励まして籠城を続け、援軍が来るまで持ちこたえた。この蔚山城の戦いは、清正の戦いの中でも最も苦しいものだったとされる。
慶長3年(1598年)に秀吉が死ぬと、豊臣家の家臣は二つに割れた。朝鮮で前線に立った清正や福島正則らの武将たちは、三成ら奉行の一派への不満を募らせ、翌年には三成を襲おうとする騒ぎまで起きた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、清正は徳川家康の東軍についた。関ヶ原には出ず、九州で西軍方の小西行長の領地を攻めた。戦いののち、行長の旧領も合わせて肥後一国を与えられ、およそ52万石の大名となった。

清正は肥後の本城として、茶臼山に新しい城を築き、慶長12年(1607年)ごろには完成させて、地名を「隈本」から「熊本」に改めたとされる。下が緩やかで上へ行くほど急に反り返る石垣は「武者返し」と呼ばれ、清正の築城の技をいまに伝えている。1877年の西南戦争では、熊本城は西郷隆盛の軍の攻撃に耐え抜いた。
清正は家康に従いながらも、秀吉への恩を忘れなかった。慶長16年(1611年)3月、京都の二条城で家康と豊臣秀頼が会見したとき、清正は浅野幸長らとともに秀頼に付き添い、無事に会見を終えさせた。その帰りの船の中で病を得て、6月24日(西暦の8月2日)、熊本で亡くなった。数え50歳だった。あまりに突然の死だったため毒殺の噂も流れたが、確かな証拠はない。清正の死から4年後、大坂の陣で豊臣家は滅んだ。加藤家も、子の忠広の代の1632年に改易され、肥後は細川家のものになった。

清正は熱心な法華宗(日蓮の教え)の信者で、熊本の本妙寺に葬られている。勇猛な武将としての姿は、江戸時代の講談や芝居で大きくふくらまされたが、領地の治水と築城に力を尽くした実務の人としての姿こそ、熊本で長く慕われてきた理由である。