人物

福島正則

Fukushima Masanori
1561年 – AD1624年8月26日(享年63・推定)
豊臣政権重要度 2

概要

賤ヶ岳の七本槍の筆頭。関ヶ原で東軍の先鋒を務め広島49万石余を得たが、城の無断修築を咎められて改易された。

本文

福島正則は1561年、尾張国海東郡二ツ寺村で、桶屋を営む福島正信の長男として生まれたという。正信は義父で、実の父は別の桶職人だったという説もある。母は豊臣秀吉の母の妹とされ、その縁で少年のころから秀吉の小姓として仕えた。1578年、播磨の三木城攻めで初陣を飾り、そのときの禄は200石だった。

1582年の山崎の戦いで功を立てたあと、1583年の賤ヶ岳の戦いで正則の名は一気に上がる。一番槍・一番首として敵将の拝郷家嘉を討ち取り、のちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる若者たちのなかで、ただ一人5000石を与えられた。ほかの6人は3000石である。その後も四国や九州の平定に従い、1587年に伊予今治で11万石余りの大名となった。

賤ヶ岳の戦いに関わる図版:Battle of Shizugatake
賤ヶ岳の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

1592年からの文禄・慶長の役では五番隊の主将として朝鮮へ渡り、巨済島の守りなども担った。1595年には尾張清洲24万石を与えられる。同じ年、秀吉の甥の豊臣秀次が切腹させられたとき、その命令を伝えたのは正則だった。

朝鮮での戦いをきっかけに、正則は石田三成と激しく対立した。1599年に前田利家が死ぬと、加藤清正らと三成を襲おうとし、これを収めた徳川家康に近づいていく。1600年、会津へ向かう途中で三成の挙兵を聞いた小山の評定では、真っ先に家康に味方すると言い切り、豊臣恩顧の大名たちの流れを決めた。岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家の大軍と正面からぶつかって持ちこたえた。戦後、西軍の総大将だった毛利輝元の居城、広島城を含む安芸・備後49万8000石を与えられた。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

広島での正則は、検地をやり直して実際の収穫に合わせた年貢にし、寺社を手厚く守った。1602年には厳島神社の平家納経を修理させている。徳川の世になっても豊臣家を主筋と仰ぎ、1611年に家康が豊臣秀頼との二条城での会見を求めたときは、渋る淀殿を加藤清正らと説得した。しかし大坂の陣では秀頼の誘いを断り、自身は江戸に留め置かれ、大坂の蔵屋敷にあった米8万石が豊臣方に接収されるのを黙認するにとどまった。

1619年、正則は台風の水害で壊れた広島城の石垣などを、幕府の正式な許しを得ないまま修築したとして、武家諸法度に背いたと咎められた。届けは出していたものの、正式な許しは下りていなかった。正則が謝って修築した部分を壊すことでいったん収まりかけたが、本丸の分だけを壊して二の丸・三の丸を残したため、破却が不十分だとさらに咎められた。将軍徳川秀忠の怒りを買い、安芸・備後の領地は没収され、信濃の高井郡と越後の魚沼郡、あわせて4万5000石に移された。翌年、跡継ぎの忠勝が早世すると2万5000石を返上し、正則は信濃の高井野で暮らした。この地では検地や用水の整備、新田開発に力を注いだ。1624年、高井野で死去。64歳だった。幕府の検死役が着く前に家臣が遺体を火葬したため、残りの2万石も取り上げられた。

正則には乱暴者としての逸話が多い。広島へ入る船で荒い風が吹くと、縁起が悪いと罪のない船頭を斬った、という話が伝わる。大酒飲みで酒癖が悪く、酔って家臣に切腹を命じ、翌朝気づいて首に泣いて詫びたという話もある。酒席で黒田家の家臣・母里友信に大杯を勧め、飲み干したら望みの褒美をやると言って、秀吉から拝領した名槍「日本号」を取られた話は、のちに民謡「黒田節」に歌われた。こうした話の多くは後世の書物に載るもので、どこまで事実かは分からない。

猪武者という印象の強い正則だが、広島では領地の石高を49万8000石から51万5000石に増やすなど、領主としての手腕も見せた。キリシタンではなかったが、清洲のころから一貫してキリシタンを保護した。千利休の茶席に招かれて、どんな強敵にも怯まなかった自分が利休殿の前では臆した、と感服したという話も残っている。

動画(1)

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