ティグラト・ピレセル1世の遠征
概要
青銅器時代の崩壊のあと、アッシリアが最初に立ち直った。地中海まで遠征し、ライオンを900頭狩ったと碑文に書く。帝国の型が見えはじめる。
場所
35.46°N 43.26°E · イラク
関わった人(1)
ティグラト・ピレセル1世?–BC1076年 · 王本文
紀元前1200年ごろ、東地中海の世界は大きく崩れた。アナトリアのヒッタイト王国が消え(ヒッタイト)、ギリシアのミュケナイの宮殿は焼かれ、エジプトは「海の民」の侵入をかろうじて退けたものの、力を落とした(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)。交易の網は断ち切られ、文字の記録さえ途絶えた土地が多い。ティグリス川の上流にあったアッシリアは、その中で国の形を保った数少ない国の一つだった。
ティグラト・ピレセル1世は、紀元前1114年ごろに王位に就き、40年近く国を治めた。即位した年、北西の山地から「ムシュキ」と呼ばれる人びとが2万の兵で侵入してきた。王はこれを迎え撃って破り、捕虜を連れ帰った。ムシュキは、のちのフリギアにつながる人びとと考えられている。以後、彼の治世は遠征に次ぐ遠征になる。

北の山地にはナイリと呼ばれる国々があった。王はそこへ攻め入り、60人の王を降したと誇っている。命を助けて誓いを立てさせ、人質と貢ぎ物の馬を取って帰らせた。西には、シリアの草原から移ってくるアラム人がいた。王はユーフラテス川を何度も渡って彼らを追い、その回数は28回、1年に2度渡ったこともあると碑文に書く。
南のバビロニアとも争った。アッシリアの記録によれば、王はバビロン王マルドゥク・ナディン・アッヘと戦い、バビロンの王宮に火を放った。当時のバビロンは、ネブカドネザル1世がエラムを破って勢いを取り戻した直後の時代である(ネブカドネザル1世のエラム遠征)。逆にバビロン王もアッシリアの町を襲い、神々の像を奪っていった。その像を取り戻したのは、400年以上のちのセンナケリブだと伝えられる。

そして王は西の海に達した。レバノンの山で杉を切らせ、フェニキアの町々、ビブロスやシドン、アルワドから貢ぎ物を受けた(ヒラムのティルス)。アルワドでは船に乗って沖に出て、「ナーヒル」と呼ぶ海の生き物を仕留めたという。鯨か大きなイルカの類だろうと考えられている。内陸の王にとって、地中海は驚きの対象だった。
王の碑文は、数字を積み重ねる。即位から5年のうちに、合わせて42の国とその王を支配下に置いた。狩りでは、徒歩でライオン120頭、戦車から800頭を倒した。シリアでは象を狩り、野牛を狩った。征服と狩りの成果を数え上げ、神アッシュルの名で王の力を示すこの書き方は、のちのアッシリアの王たちの碑文の型になった。
この碑文は、近代の学問の歴史にも名を残している。王の事績を刻んだ八角柱の粘土の柱が、都アッシュルの神殿の土台から見つかった。1857年、ロンドンの王立アジア協会はその写しを4人の学者に別々に渡し、互いに相談させずに翻訳させた。届いた訳文がおおよそ一致したことで、楔形文字が本当に読めるようになったと認められた。
王は国内でも記録を残した。都に神殿を建て直し、運河と果樹園を整えた。アッシリアの法の条文を写した粘土板や、宮廷の女性たちの決まりを定めた文書も、彼の時代に写されたものが残る。神殿には多くの粘土板が集められ、のちのアッシリアの王たちが文書を集める先駆けになったともいわれる(ニネヴェの図書館)。

だが晩年、状況は変わった。アラム人の流入は止まらず、記録には飢饉の年が続いたことが見える。人びとが山へ逃れたという記述もある。王の死後、アッシリアは西の領土を失い、ティグリス川沿いの本拠に押し込められた。
国が再び外へ向かうのは、紀元前10世紀の終わり、アッシュル・ダン2世やアダド・ニラリ2世の代になってからである。その後に続く王たちは、ティグラト・ピレセル1世と同じように西の海を目指し、征服地の人びとを移住させ(アッシリアの強制移住)、やがて西アジア全体を治める帝国を作る(新アッシリア帝国)。紀元前8世紀に帝国を大きく広げた王は、この王と同じティグラト・ピレセルの名を名乗った。