ティグラト・ピレセル1世
概要
崩壊の時代にアッシリアを立て直し、地中海まで遠征した。碑文に自分の狩りと征服を数字で記す。粘土板の図書館を作った最初の王でもある。
所属
新アッシリア帝国関わったできごと(1)
ティグラト・ピレセル1世の遠征BC1114年 · 王本文
紀元前1114年ごろ、父アッシュル・レーシャ・イシ1世のあとを継いでアッシリアの王になった。在位はおよそ40年で、前1076年ごろに終わる。年代には学説により数年の幅がある。のちの新アッシリア帝国の時代にも同じ名の王(3世)が出るため、区別して1世と呼ばれる。

継いだ国は、ティグリス川中流の都市アッシュルを中心とする中規模の王国だった。その少し前、東地中海の世界は大きく揺らいでいた。ヒッタイトの王国が消え、シリアの港町ウガリトが焼け、エジプトも海の民の侵入と青銅器時代の終わりと呼ばれる集団との戦いで疲れていた。青銅器時代を支えた大国どうしの交易と外交の網が切れ、周りの国々が次々に倒れたあとの時代である。
即位した年、北のアナトリアから、ムシュキと呼ばれる人びとが2万の兵を率いて、アッシリアの北の境へ入り込んできた。王はこれを迎え撃って破り、生き残った者を捕虜として連れ帰ったと碑文は記す。数字は王の碑文に特有の誇張を含むとみるのが普通だが、侵入を退けたことは確かである。

そこから王は、守るより攻める道を選んだ。北の山地へ、ヴァン湖のまわりのナイリと呼ばれる地方へ遠征し、そこの王たちを降した。碑文は、ナイリの王23人を従えたと記す。東のザグロス山脈へも兵を出した。治世の前半だけで「42の国とその王たち」を支配下に置いた、と王は書いている。
西への遠征はさらに遠くまで及んだ。ユーフラテス川を渡ってシリアを抜け、レバノンの山で杉を切らせ、地中海の岸に出た。フェニキアの町ビブロスやシドンから貢ぎ物を受け、島の町アルワドの船に乗って沖へ出ている。海で「ナーヒル」と呼ばれる生き物を仕留めた、と碑文にある。ナーヒルが何を指すかは分かっておらず、クジラともイルカとも言われる。内陸の王が海に漕ぎ出したことを、わざわざ書き残したかったのだろう。
この王の碑文は、数字を並べることで知られる。徒歩で120頭のライオンを、戦車から800頭を仕留めた。野牛や象も狩り、象は生け捕りにもした。征服した国の数、捕らえた捕虜、奪った家畜の数が、同じ調子で書き連ねられる。狩りと戦争を同じ並びで数え上げ、王が混沌を押さえ込む力を示すという書き方は、のちのアッシリアの王たちの碑文の型になった。
都アッシュルでは、神殿を建て直し、宮殿にはレバノン杉を使い、遠征先から持ち帰った木々を植えた庭を造った。王は粘土板を集めることにも力を入れた。占いの文書、神々への讃歌、法や宮廷の規則の写しなどが、この王の時代のアッシュルでまとめて書き写されている。王が組織的に集めた蔵書の早い例とされ、アッシュルバニパルのニネヴェの図書館よりおよそ400年前になる。ただ、これを「最初の王の図書館」と呼べるかどうかは、図書館という語の定義しだいでもある。

南のバビロニアとも争った。治世の後半、バビロンの王マルドゥク・ナディン・アッヘと戦い、バビロンを含む北バビロニアの町々を一時占領したと記録される。
しかし、王の晩年を苦しめたのは、西から押し寄せる人びとだった。シリアの草原から、アラム人と呼ばれる集団が次々にユーフラテス川を越えてくる。王は彼らを追って何度も川を渡り、碑文には28回渡ったと記す。追っても追っても、彼らは戻ってきた。飢饉も重なったとみられ、ある年代記の断片は、アラム人がアッシリアの国土にまで入り込んだことを伝えている。
前1076年ごろ王が死ぬと、息子たちが次々に位を継いだ。アッシリアはその後およそ150年、アラム人の圧力の下で領土を縮めていく。広い領土を取り戻すのは、前10世紀の終わり、のちに新アッシリア帝国と呼ばれる時代に入ってからである。その時代の王たちは、この王を手本として、同じように遠征と狩りを数で語った。300年あまり後、ティグラト・ピレセル3世がこの名を名乗ったのも、偶然ではないとみられている。