できごと

ネブカドネザル1世のエラム遠征

Nebuchadnezzar I's campaign against Elam
BC1120年頃
年に諸説あり重要度 3
古シベリアの狩猟採集民コイサンサハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民原アルタイ系の牧畜民カラスク文化西アフリカの穀作農民チベット系諸集団北欧青銅器時代の諸文化イラン系の牧畜民キンメリアドラヴィダ系の人びとアラビアの牧畜遊牧民骨壺墓地(アーンフィールド)文化エジプト新王国ベルベル系の人びとヴェーダ期のアーリヤ人アラム人エラム国家群とアラム系諸王国エチオピア高原の農民ウラルトゥクシュ王国トラキアイリュリア人フリュギア人新アッシリア帝国イスラエル王国ギリシア諸ポリスBabyloniaサバア王国BC1120年頃バビロン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC1120年頃の版図を描いています(31勢力)。

概要

エラムに奪われていたマルドゥクの像を、夏の暑さの中の遠征で取り戻した。「刃は炎のように熱く、水は毒のように」。マルドゥクはこのあとバビロンの最高神になり、『エヌマ・エリシュ』が整えられる。500年あまり後の同名の王のほうが有名になった。

場所

バビロン
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県

関わった人(1)

ネブカドネザル1世?–BC1104年頃 · 王

本文

紀元前2千年紀の後半、メソポタミアの南部、バビロンを中心とする国は、山地から来たカッシート人の王たちに治められていた。カッシートの王朝はおよそ400年続き、大国エジプトやヒッタイトとも手紙と贈り物を交わす、落ち着いた時代を築いた。その東、いまのイラン南西部のザグロス山脈のふもとには、スーサを都とするエラムの国があった。エラムはメソポタミアと古くから争い、また交わってきた隣国である。

紀元前12世紀の半ば、エラムの王シュトルク・ナフンテがメソポタミアに攻め込み、町々を荒らした。彼は戦利品として、古い王たちの記念の石碑をスーサへ運び去った。そのなかには、600年ほど前のハンムラビの法を刻んだ黒い石の碑(ハンムラビ法典)も含まれていた。この碑が、20世紀のはじめにバビロンではなくスーサの遺跡から掘り出され、いまパリのルーヴル美術館にあるのは、このためである。続く王の時代に、エラムはカッシートの王朝を倒した。そして、バビロンの守り神マルドゥクの像を、エサギラの神殿から持ち去ったと伝えられる。

ハンムラビ法典に関わる図版:P1050763 Louvre code Hammurabi face rwk
ハンムラビ法典Wikimedia Commons Mbzt · CC BY 3.0

古代メソポタミアの人々にとって、神の像は単なる彫刻ではなかった。像には神そのものが宿り、毎日食事を供えられ、衣を着せられ、祭りには町を練り歩いた。像が敵に連れ去られることは、神が町を見捨てたことを意味した。マルドゥクのいないバビロンでは、王が神の手を取って王権を新たにする新年の祭りも行えなかった。

カッシートの王朝のあと、南部では、イシンの町から出た王たちの新しい王朝が力を伸ばした。その4代目の王がネブカドネザル1世である。名はアッカド語でナブー・クドゥリ・ウツルといい、書記の神ナブーに跡継ぎ(あるいは境)を守ってくれるよう願う意味とされる。在位はおよそ紀元前1125年から1104年とされる。

ネブカドネザル1世
ネブカドネザル1世Wikimedia Commons L. W. King · Public domain

王の第一の目標は、マルドゥクの像を取り戻すことだった。最初の遠征は失敗に終わった。後の文書は、軍に病が広がったことを伝えている。王はあきらめず、次の遠征を準備した。

その遠征の様子は、思いがけない形で残っている。王はこの戦いで手柄を立てた戦車隊の長シッティ・マルドゥクに、税と労役を免じる特権を与え、その証書を石に刻ませた。境界の石(クドゥル)と呼ばれる、土地の権利や特権を記し、神々の印と、これを犯す者への呪いを刻んだ石である。そこに、遠征の苦しさが書き込まれている。軍は真夏のタンムズの月に出発した。斧は火のように焼け、道の石は炎のように熱く、井戸には水が無く、いちばん強い馬が倒れ、いちばん強い兵の足もよろめいた、という。普通なら軍を出さない酷暑の季節を選んだのは、敵の不意を突くためだったと考えられている。

ネブカドネザル1世の境界石(クドゥル)、銘文入り
ネブカドネザル1世の境界石(クドゥル)、銘文入りWikimedia Commons Theophilus Goldridge Pinches M.R.A.S. (1856 – 6 June 1934 Muswell Hill, London) · Public domain

両軍はエラムの地を流れるウライ川のほとりでぶつかった。砂ぼこりで昼が闇のようになったという激しい戦いの末、エラムの王は逃げ去り、二度と姿を見せなかったと証書は記す。バビロンの軍はスーサへ進み、マルドゥクの像を取り戻した。王はこれを、自分が神の手を取ってバビロンへ連れ帰ったこととして誇った。エラムはその後、数百年のあいだ歴史の記録からほとんど姿を消す。

マルドゥクは、もともとバビロンの町の守り神で、メソポタミア全体の神々の王は、ニップルの町のエンリルだった。だが、この時代からマルドゥクは神々の頂点に立つ神として、より強く崇められるようになったと考えられている。マルドゥクが混沌の海の女神ティアマトを討ち、その体を裂いて天と地を作り、神々から50の名を授けられて王となる創世の叙事詩『エヌマ・エリシュ』は、のちにバビロンの新年の祭りで唱えられた。この叙事詩がネブカドネザル1世の時代に整えられたという説は有力だが、もっと早い時代の成立と見る研究者もいて、決着していない。

ネブカドネザル1世治世のクドゥル(大英博物館)
ネブカドネザル1世治世のクドゥル(大英博物館)Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

この時代には、マルドゥク自身が語る形の文書も作られた。そこで神は、自分は怒って自ら国を離れ、外国へ出かけ、やがて自らの意志でバビロンへ帰る、と語る。像が奪われたのは神が負けたからではなく、神が自分で去ったからだ、という語り方である。国の不幸を、神の弱さではなく神の意志として説明しようとする考え方は、後の時代の別の民族の信仰にも見られる。

マルドゥクの像の受難は、これで終わらなかった。のちにアッシリアの王たちが、バビロンを罰するたびに像を持ち去った(センナケリブのバビロン破壊)。500年ほどのち、カルデア人の王が、この偉大な先王の名を取ってネブカドネザルと名乗った。それがネブカドネザル2世で、バビロンを壮麗な都に造り替え(ネブカドネザルのバビロン)、エルサレムを滅ぼして聖書にその名を残した。2世があまりに有名になったため、名の元になった1世は、いまでは専門家のあいだで知られるにとどまっている。

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