三毛別羆事件
概要
北海道苫前村の開拓集落を一頭のヒグマが二度襲い、7人が死に3人が重傷を負った。日本史上最悪の熊害とされる。
場所
44.13°N 141.80°E · 日本・北海道苫前郡苫前町
本文
北海道の日本海側、苫前の町から南東へ30キロほど入った山あいに、六線沢と呼ばれる開拓の集落があった。三毛別の川の上流にあたり、1915年(大正4年)当時、15軒の家が森を切り開いて畑を耕していた。三毛別という地名は、アイヌ語で川下へ流し出す川を意味するサンケ・ペツから来ている。明治に始まった内陸の開拓(北海道開拓使)で、人の暮らす場所はヒグマの棲む森の奥へと広がっていた。
その年の11月初め、集落の池田家にヒグマが現れ、軒下に干していたトウモロコシを荒らした。ヒグマは月末にも現れ、頼まれて見張っていたマタギが撃ったが、傷を負わせただけで逃がした。
12月9日の昼、太田三郎の家に、留守を守っていた内縁の妻の阿部マユと、養子に迎える予定だった6歳の蓮見幹雄がいた。山仕事から戻った三郎は、炉端に座る幹雄を見つけた。寝ているのかと思って近づくと、幹雄は喉と頭に深い傷を負って死んでいた。マユの姿はなく、窓の枠には彼女のものらしい髪の毛が絡みついていた。ヒグマがマユを引きずって窓から出ていったのである。日は暮れかけていて、追うことはできなかった。
翌10日の朝、男たちが捜索に出ると、すぐ近くからヒグマが飛び出した。慌てて銃を向けたが、手入れが悪く、撃てたのは一丁だけだった。ヒグマが逃げたあとのトドマツの根元で、雪に埋められたマユの遺体の一部が見つかった。
その夜、太田家で二人の通夜が営まれた。ヒグマを恐れて集まったのは9人だけだった。夜8時半ごろ、ヒグマが家に押し入り、棺を打ち倒した。人々は梁によじ登り、外へ逃げ出した。近くの家から大勢が駆けつけたときには、ヒグマはもう姿を消していた。
そのころ、500メートルほど下流の明景家には、女性と子ども、手伝いの年寄りが身を寄せていた。家主の明景安太郎の妻ヤヨと5人の子、役場へ知らせに出た斉藤石五郎の身重の妻タケと2人の子、それに太田家の寄宿人だった59歳の長松要吉である。8時50分ごろ、窓を破って黒い塊が飛び込んできた。炉とランプの火が消え、ヒグマは暗闇の中で人々に襲いかかった。
ヒグマは逃げる要吉を追って傷を負わせ、そのすきにヤヨは背負っていた赤ん坊の梅吉とともに外へ逃れた。居間にいた3歳の金蔵と春義が殺され、6歳の巌も深い傷を負い、まもなく息を引き取った。野菜の置き場に隠れていたタケも引きずり出され、お腹の子の命乞いをしながら殺された。駆けつけた男たちが空へ向けて鉄砲を放つと、ヒグマは家から躍り出て、裏山へ消えた。この夜だけで、タケとお腹の子を含む5人が死んだ。
集落の人々は全員が三毛別の分教場へ逃れた。12月12日、知らせを受けた北海道庁の警察部の指示で、羽幌分署長の菅貢が討伐隊を組んだ。本部は三毛別の区長、大川興三吉の家に置かれた。ヒグマには奪った獲物を取り戻しに来る習性がある。隊は明景家に残された遺体をおとりにして待ち伏せたが、ヒグマは家の手前で足を止め、引き返した。13日には人のいなくなった家々が荒らされた。旭川の陸軍歩兵第28連隊にも出動が求められた(実際に出動したかには異説がある)。その夜、川に架かる氷の橋で見張りをしていた者が、対岸の切り株が一つ多く、しかも動いているのに気づいた。一斉に撃つと影は闇に消え、翌朝、血の跡が見つかった。
14日、討伐隊とは別に一人で山に入ったのが、57歳の猟師、山本兵吉である。前日にヒグマの姿を見ていた山本は、隊より先にヒグマを見つけた。ヒグマは討伐隊のほうに気を取られていた。山本は20メートルほどまで近づき、ハルニレの木の陰から撃って胸を射抜いた。ヒグマは立ち上がって山本をにらんだが、二発目が頭を貫き、午前10時ごろ、ヒグマは倒れた。3日間に延べ600人が加わり、60丁の鉄砲が集められた討伐は、こうして終わった。ヒグマの死骸をそりで運び下ろすと空が急に荒れて吹雪になり、村人はこれを熊風と呼んで語り継いだ。
死んだのは、胎児を含めて7人、重い傷を負ったのは3人である。解剖したヒグマの胃からは人の肉や衣服が見つかった。見物に来た人々からは、このヒグマは少し前によその土地でも人を襲っていた、という証言も出たと伝えられる。
事件は辺地で起きたこともあり、当時の新聞の報道は不正確で、長く詳しい記録が残らなかった。1961年、苫前で林務官をしていた木村盛武が、生き残った人や関係者30人あまりから聞き取りを始め、1965年に発表した。のちに『慟哭の谷』として本になり、事件の経過はこの記録によって知られるようになった。吉村昭の小説『羆嵐』(1977年)もこの事件を描いている。討伐の本部となった区長の家の息子、大川春吉は、のちに熊撃ちとなって多くのヒグマを仕留めたと伝えられる。
事件は、ヒグマは火を恐れない、一度手に入れた獲物に強く執着する、逃げるものを追う、という習性を、多くの命と引き換えに教えた。現場の近くには事件を伝える復元地が作られ、事件から100年の2015年には地元の人々による法要が営まれた。